Mikiyoshi1986

こうのとり、たちずさんでのMikiyoshi1986のレビュー・感想・評価

こうのとり、たちずさんで(1991年製作の映画)
4.0
明日9月28日はイタリア最高峰の名優マルチェロ・マストロヤンニのお誕生日です。
存命ならば93歳に。

衰え知らずのマストロヤンニが晩年に出演したアンゲロプロス作品「こうのとり、たちずさんで」

つい先々月に惜しくも逝去された"ヌーヴェルヴァーグの恋人"ジャンヌ・モロー様も出演しており、
61年公開のアントニオーニ作品「夜」から実に30年ぶりの再共演を果たしたのも見所のひとつ。

ソ連が崩壊した91年に製作された本作は、アンゲロプロスが度々テーマにしてきた自国ギリシャの国境と民族についてを取り上げます。

ギリシャ国境付近の村、通称「待合室」に集う多国籍難民たち。
ジャーナリストの男はその中に10年ほど前に失踪したギリシャの大物政治家らしき人物を見つけます。
はたして彼は本当に難民なのか、それともかつての政治家なのか、
ジャンヌ・モロー演じる元妻は彼と対面した時何を思うか。

本作から10年ほど前といえばギリシャの民主主義政権から社会主義政権へ移行した時期に相当し、
彼はかつて君主制を破った新民主主義党の閣僚だったと想像できます。
政変に対するこの大きな落胆は彼を疲弊させ、国境をさまよう異邦人と化してしまったのでしょうか?

しかしマストロヤンニが演じる男のアイデンティティーはそこまで重要ではなく、
彼の存在は謂わばギリシャが抱える"境界"の概念として位置づけられているように思います。
本編では一方でボーダレス社会を象徴するダンスや音楽、電話、電線、そして愛がその概念的境界を無効化するのです。

世紀末を目前にして煩わしい冷戦もついに終結した時、
人間の意識的な隔たりと物理的な隔たりについてを問うたアンゲロプロス。

特に河を隔てたマリアージュのシーンは我々に強烈なインパクトを与えます。
一世紀が終わろうとしている今、境界を越えて人間の存在そのものは一体どこに行き着くのか。
誰もが孤独と共に人生を漂流し続けるというテーマを根底に、
彼の問いは新世紀を迎えた現代のグローバル世界にも往々にして意味深長な響きを与えるのです。
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