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白い花びらのTnTのネタバレレビュー・内容・結末

白い花びら(1998年製作の映画)
3.6

このレビューはネタバレを含みます

 まさかのモノクロでサイレント(劇伴はついてます)!通りでクレジットの文字がやたら古めかしいわけだ。しかもこの作品が1999年に制作されているという時代錯誤笑。自分も映画に対するオマージュとして、自主映画でサイレントまではいかないがモノクロで撮ったことがあって、「いつまでこんな古いことをしているのか」と大学の教授に言われたことがある。今、少しばかりその教授の言葉がわかる気がした。映画へのオマージュを隠さず、古典を好む彼だが、流石にここまで徹底して古典的なことを現代に差し掛かってする意味が気になる。それとも丸ごと古典をパロディにしたのだろうか?

 音のある世界での無言と、音の無い世界での無言はワケが違う。いつものカウリスマキ作品の無言なのではなく、無音として今作品では彼らの口を閉ざしているという意思は消える。ベケットが「話していることに意味があるのなら、沈黙にも意味がある」みたいなことを言っていた(ような気がする。出典不明)のを思い出す。今作品だと沈黙も話すことも同列になってしまっている。

 カウリスマキが、音を削いだ極地に達したわけではない。今までのカウリスマキ作品に必要な、大仰な演技のない朴訥さが如何に大事だったか反面教師的にわかってくる。サイレントは、結果身振りを大きくして説明しなければならず、朴訥さを失わせる。またカウリスマキ作品の映画ならではの奇跡を可能にしていたのは、この朴訥な人々あってこそであったなと思った。つまり、そもそもかなりありえないシナリオ運びなのに、そこにいつもはない大仰な演技が重なることで、リアリティはなくなりつつあった。だから、悲劇が悲劇として機能しきれていないのかもしれない。というようなことを最近読んだ「アキ・カウリスマキ」というタイトルの本でおんなじことが書いてありました笑。今作の音の問題は、多分カウリスマキ映画好きなら違和感を感じるだろう。

 突然映画内の音が再現される時、ビビる。これがちょっとした現代性というか、古典にとどまらないギミックなのだろう。しかし、音と映像は今作品では完全に分離したものとして認識される。それは、後にいくら一致させても、別々につくられたことを感じずにはいられないのだ。シュメイッカの姉(?)が歌うシーンの鮮烈な違和感。本来なら普通に歌っているシーンとしてとれるのに、一度バラされた音と映像に懐疑的なせいか、アフレコまたは口パクでしかないのだと思わざるをえない。カウリスマキがどう意図したかわからないが、ゴダール的なソニマージュを無意識に実践してしまったシーンだ。また、この作品に漂うムードがデヴィッド・リンチのようなダークさである不思議さ。どちらもブニュエル好きであるし、結果目指す世界観が類似しなくもないだろう。ただ、のちの「マルホランド・ドライブ」(2001)でのラストの泣き歌の口パク、”全ては録音されていた”のシーンは、もしや今作のこのシーンからの影響なのではと思った。

 原題はユハだが、物語的に主人公は妻の方のマルヤである。原作は既に男性中心社会での女性の生きづらさを表しており、今作品もそれを体現しているらしい。マルヤの都会への憧れを否定はできないし、結局利用されるという悲劇。女性の生きづらさと悲劇という点で、ちょっと「マッチ工場の少女」を思い出す。マルヤを演じたオウティネンはかなり彼の作品に出続け歳を重ねているものの、いつも美しさというか気品がある。化粧すると逆に途端に老けて見えるというのが可笑しい。ラストで子を抱え、駅のホームで人の流れに逆らって佇む姿は、現代版オデッサの階段と言えるようなイメージがあった。やはりどこまでも古典的。

 男はゴミ捨て場へ。彼はどうすればよかったのか?カウリスマキのインタビューを最近本で読んだが、思った以上に暗く絶望的で一周まわって皮肉屋だった。そんな彼の答えはもしかすると、「男はゴミだ、ならゴミ箱に向かうしかないだろう?」というニヒリスティックなものかもしれない。このラストは悲劇だが、そうしたニヒルから生まれる滑稽さもある。自らを捨てるためにゴミ捨て場に行ったと思うと、かなり際どい笑いである。今作品、そういえば、喜劇と悲劇の両端を危うい歩幅で歩んでいる。今作に関しては、笑うに笑えない、泣くに泣けない一番困惑する表現になってしまった感はある。

 ユハがゴミ捨て場に倒れこむ時、空を仰ぎ見た。ちょうど昨日見た「コントラクト・キラー」の主人公も、自殺を思い浮かべた時、空を見た。まるでそれは、フェリーニの「道」のラストのザンパノのように。映画では、空というフレーム外に目を向ける時、空以上の想像力がそこにある。見えないその空を見ている彼ら自身の姿は、私たちには見える。しかし、その空が私たちの知っている空と本当に同じなのかわからない。いや、そういう問題ではなく、目を上にむける、ある意味昇天を意味する言語としての視線なのか。もしくは、ルドンの絵画に見られる目線と関連づけることも可能だ。空ひとつ見ることだって、映画の中ではあまりにも意味深すぎるのだ。

 終始画面は美しいのだが、いまいち見所を見つけられず、困惑したまま見終わってしまった。やはり彼はトーキーの映画監督だと思う。今作品は実験的な作品として、もしくはブラックなジョークとして受け止めたいと思う。
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