白い花びらの作品情報・感想・評価

「白い花びら」に投稿された感想・評価

koms

komsの感想・評価

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冒頭、まさかずっとこの音楽が流れてるんか…!と絶望したけど最後にはだいぶ慣れた(苦手ではあった)。照明の素晴らしさが白黒になった事で際立っていた。
「コンタクト・キラー」のあとに今作を見て、「カウリスマキの映画ってこんなに人死ぬっけ?」てなったんだけど、どうだったっけ?
結婚詐欺とかに一瞬で騙されそうな頭弱い既婚の女の人が女衒に騙される映画。
Marjaは哀れすぎて見てらんなかった。
Juhaも感情に流されすぎだし、ちょっと何したいか分からなかった。
まだ1番感情移入出来たのはShemeikkaだった。

ワンコロが追いかけてくるシーンとJuhaの生命力しか見所がない。


紅の豚でお馴染さくらんぼの実る頃が挿入歌として流れてたね
Tatsu

Tatsuの感想・評価

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劇盤が煩すぎてサイレントといえどほとんどミュージカルみたいになってる。男2人+女1人もの。正直失敗作なのではないか。
まつこ

まつこの感想・評価

4.0
少女が女に変わる物語。モノクロだから清らかさがより一層眩しく見えた。企み顔も活きるね。大袈裟な音楽も好きだし、旦那の頑張りに痺れた。

窮屈な世界に息苦しさを感じてもしあわせは歩いてこない。王子様を待っても頼る相手を間違えたら取り返しがつかなくなる。パパ活をしている若者に見て欲しくなるな。(御伽噺風だから注意喚起としては弱いかな…)
kuu

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3.5
『白い花びら』
原題Juha
製作年1998年。上映時間78分。
芬蘭土(フィンランド)全編モノクロの無声映画。

芬蘭土の片田舎。
自分たちの作ったキャベツを町外れの市場に売りに行き、生計を立てている夫婦ユハとマルヤ。
キャベツは飛ぶように売れ、幸せな日々を送っていた。
そんなユハとマルヤのもとに光り輝くオープンカーに乗って、カサノバ風な男シュメイッカが現れ、マルヤを誘惑する。。。

二十世紀の終わりにモノクロの無声映画を作るのは、すでにさかしまな行為と云えるかな。
ましてやヨーロッパの辺境(失礼🙇‍♂️)芬蘭土(フィンランド)で映画を作りつづけるってなりゃ尚更。
己で作品を作り配給し上映する。
己がいなければ作品そのものが存在しない。
こないな立場であれば、作品作りその ものに意識的になるのは当然だといえるかな。
小生も同じ様に作品を生んでますから感じます。
アキカウリスマキは映画を作るために、 映画のシステムすべてを発明しなければならなかった苦肉の策も伺える。
カウリスマキの新作は “二十世紀最後のサイレント映画と称されていると知人が絶賛してました。
かつての無声映画のスタイルを模して、会話はなく、セリフはすべてインタータイトル (中間字幕。映像の様々な場面の途中に、編集によって挿入される、印字された文章を撮影したコマ) で処理される。
公開されるのは音楽伴奏付きのサウンド版ですが、ベルリン映画祭のプレミアじゃバンドの生演奏というかつての無声映画スタイルで上映されたそうです。
半世紀以上前に滅びた映画形式を、技術的制約がない現代にわざわざ甦らせる (パーでの演奏シーンからわかるように実際には映画は同録で撮られている)。間違いなくさかしまと云っても過言じゃない。
ある種の映画作家、極端なフォルマリスト(自律性を強調し、言語表現の方法と構造の面からの作品解明する)は形式的完成を目指して映画を作る。
カウリスマキの倒錯は無声映画を作ることそのものが目標となっているとこ ろにある。
映画の中で、俳優たちはわざとサイレント映画的な大げさな演技をつけてみせたり、ただ音のない映画を作ろうとしているのではなく、意識して紛い物無声映画をつくろうとしてる。
映画てのは本来アミューズメントであり、興行であるし、その意味ではハリウッド産の100均ダイソー的大量生産映画の方が、個人作家の芸術作品よりもはるかに映画の本質に近いと云える。
スタジオ・システムが崩壊した二十世紀末に無声モノクロ映画を作ろうとするのは、その意味ですでにさかしま行為です。
そしてもともと映画産業のないところで映画を作るカウリスマキほど、それを強く意識している映画作家もいない。
彼はゼロから映画を創造した。
過去のない世界でなら、どんな手法であろうと歴史的文脈から切りはなして自由勝手に使うことができる。
彼は手法としてサイレント映画を使ってみせた。
今作品は簡素なメロドラマでサイレント映画でもなければ成立し得ない。
そう監督は考えた。
現代ではありえない単純すぎるメロドラマに現実味を持たせるため、サイレント映画の形式を借用した。
嬉しさを表すために抱きあって踊るちゅう記号のような演技を視聴者が、受け入れ認められるなら、誘惑されるヒロインのナイーヴさもまた信じられる。
二十世紀の終わりにサイレント映画を作る倒錯はその手法に見合ったテーマを得て正当化されるんやろな
tent

tentの感想・評価

3.6

このレビューはネタバレを含みます

 まさかのモノクロでサイレント(劇伴はついてます)!通りでクレジットの文字がやたら古めかしいわけだ。しかもこの作品が1999年に制作されているという時代錯誤笑。自分も映画に対するオマージュとして、自主映画でサイレントまではいかないがモノクロで撮ったことがあって、「いつまでこんな古いことをしているのか」と大学の教授に言われたことがある。今、少しばかりその教授の言葉がわかる気がした。映画へのオマージュを隠さず、古典を好む彼だが、流石にここまで徹底して古典的なことを現代に差し掛かってする意味が気になる。それとも丸ごと古典をパロディにしたのだろうか?

 音のある世界での無言と、音の無い世界での無言はワケが違う。いつものカウリスマキ作品の無言なのではなく、無音として今作品では彼らの口を閉ざしているという意思は消える。ベケットが「話していることに意味があるのなら、沈黙にも意味がある」みたいなことを言っていた(ような気がする。出典不明)のを思い出す。今作品だと沈黙も話すことも同列になってしまっている。

 カウリスマキが、音を削いだ極地に達したわけではない。今までのカウリスマキ作品に必要な、大仰な演技のない朴訥さが如何に大事だったか反面教師的にわかってくる。サイレントは、結果身振りを大きくして説明しなければならず、朴訥さを失わせる。またカウリスマキ作品の映画ならではの奇跡を可能にしていたのは、この朴訥な人々あってこそであったなと思った。つまり、そもそもかなりありえないシナリオ運びなのに、そこにいつもはない大仰な演技が重なることで、リアリティはなくなりつつあった。だから、悲劇が悲劇として機能しきれていないのかもしれない。というようなことを最近読んだ「アキ・カウリスマキ」というタイトルの本でおんなじことが書いてありました笑。今作の音の問題は、多分カウリスマキ映画好きなら違和感を感じるだろう。

 突然映画内の音が再現される時、ビビる。これがちょっとした現代性というか、古典にとどまらないギミックなのだろう。しかし、音と映像は今作品では完全に分離したものとして認識される。それは、後にいくら一致させても、別々につくられたことを感じずにはいられないのだ。シュメイッカの姉(?)が歌うシーンの鮮烈な違和感。本来なら普通に歌っているシーンとしてとれるのに、一度バラされた音と映像に懐疑的なせいか、アフレコまたは口パクでしかないのだと思わざるをえない。カウリスマキがどう意図したかわからないが、ゴダール的なソニマージュを無意識に実践してしまったシーンだ。また、この作品に漂うムードがデヴィッド・リンチのようなダークさである不思議さ。どちらもブニュエル好きであるし、結果目指す世界観が類似しなくもないだろう。ただ、のちの「マルホランド・ドライブ」(2001)でのラストの泣き歌の口パク、”全ては録音されていた”のシーンは、もしや今作のこのシーンからの影響なのではと思った。

 原題はユハだが、物語的に主人公は妻の方のマルヤである。原作は既に男性中心社会での女性の生きづらさを表しており、今作品もそれを体現しているらしい。マルヤの都会への憧れを否定はできないし、結局利用されるという悲劇。女性の生きづらさと悲劇という点で、ちょっと「マッチ工場の少女」を思い出す。マルヤを演じたオウティネンはかなり彼の作品に出続け歳を重ねているものの、いつも美しさというか気品がある。化粧すると逆に途端に老けて見えるというのが可笑しい。ラストで子を抱え、駅のホームで人の流れに逆らって佇む姿は、現代版オデッサの階段と言えるようなイメージがあった。やはりどこまでも古典的。

 男はゴミ捨て場へ。彼はどうすればよかったのか?カウリスマキのインタビューを最近本で読んだが、思った以上に暗く絶望的で一周まわって皮肉屋だった。そんな彼の答えはもしかすると、「男はゴミだ、ならゴミ箱に向かうしかないだろう?」というニヒリスティックなものかもしれない。このラストは悲劇だが、そうしたニヒルから生まれる滑稽さもある。自らを捨てるためにゴミ捨て場に行ったと思うと、かなり際どい笑いである。今作品、そういえば、喜劇と悲劇の両端を危うい歩幅で歩んでいる。今作に関しては、笑うに笑えない、泣くに泣けない一番困惑する表現になってしまった感はある。

 ユハがゴミ捨て場に倒れこむ時、空を仰ぎ見た。ちょうど昨日見た「コントラクト・キラー」の主人公も、自殺を思い浮かべた時、空を見た。まるでそれは、フェリーニの「道」のラストのザンパノのように。映画では、空というフレーム外に目を向ける時、空以上の想像力がそこにある。見えないその空を見ている彼ら自身の姿は、私たちには見える。しかし、その空が私たちの知っている空と本当に同じなのかわからない。いや、そういう問題ではなく、目を上にむける、ある意味昇天を意味する言語としての視線なのか。もしくは、ルドンの絵画に見られる目線と関連づけることも可能だ。空ひとつ見ることだって、映画の中ではあまりにも意味深すぎるのだ。

 終始画面は美しいのだが、いまいち見所を見つけられず、困惑したまま見終わってしまった。やはり彼はトーキーの映画監督だと思う。今作品は実験的な作品として、もしくはブラックなジョークとして受け止めたいと思う。
モノクロでサイレント映画なんだけど、感情豊か過ぎる音楽が、終始鳴り響く独特の演出で面白かった!
良い意味で、尋常でない頭のおかしい作り。
音楽の音の大きさ、たまに入る天然の音。フリッツ・ラングのように高速で進むかと思えば、気まぐれのようにじりじりと停滞する展開。
話はね、これは…かわいそうすぎる(小並感)
エイジ

エイジの感想・評価

3.6
どの国でも田舎者は都会に憧れる。

だから、もうよくある話って奴。

でも、サイレントだから
目が離せない展開になるんだよな。


カウリスマキらしくない展開ではあった。
A

Aの感想・評価

3.5
悲しいラスト。
こんなにずっと音楽が流れている無声映画ってあるんだなぁと思った
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