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酔いどれ天使のTnTのネタバレレビュー・内容・結末

酔いどれ天使(1948年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

 皆が皆説教垂れとる!しかも人物はフレームギチギチに詰められ、舞台はドブ沼のある闇市だけ。おまけに志村喬の親父臭がドアップで強調されてと、観ててまぁぐったりするような話である。戦後すぐに闇市のゴミゴミした風情や、ヤクザに啖呵切る度胸などには、勿論只ならぬものを感じる。世の中に腹立って仕方ない感じが暑苦しさの所以だろう。

 対位法的なもので成り立っている映画。醜い酔いどれのむさい医者が天使で、ハンサムすぎるヤクザは結核で死にかけている。オッサンに天使を見出すのはキャプラの「素晴らしき哉人生」からきてるのだろう。しかし今作は地に足のついた人物であり、彼もまたヤクザに天使性を見出していると思われる。ラストの白ペンキにまみれてのた打ち周り、死に際に自らの潔白を証明するかのように真っ白に燃え尽きた三船は、まさに天に召されるに値する死に様だった。

 ところで、黒澤はこの頃暴力そのものへの嫌悪が強く、ヤクザなのに延々と両者が刺し殺さない所に冗長さがある。戦後の、呆れ返るほどの暴力の後に、カタルシス的な暴力など描く気になれないということなのか。6年後には「七人の侍」を撮るのだが、それまでのフィルモグラフィーでは、とにかく加害側さえもが暴力を嫌悪してるように見える。

 とにかく三船三昧の映画。一挙手一投足カメラが逃さず、強そうなのに華奢な性格なのは今だったら二次創作ウケが半端なそうだなとか思ったり。てかイケメンすぎる。「岡田(ヤクザの親分)の横にいるとチンケに見える」という台詞があるが、「そうか?」と思ってしまった。志村喬の顔が強烈に醜を打ち出し、三船と対比されるがそんなお膳立ても無意味に独立した魅力が三船にはあった。

 演出がすべて表出しており、例えば蚊がいるなら台詞で言ってしまうし、ギター弾きもかなり強調されている。ここらへんの上手い塩梅みたいのが無いなと。これがだんだん天候だの霧だのさえも演出として組み込んでいくのだから恐ろしい。

 笠置シヅ子の歌に代表される女性の存在。今作において女性は物語を駆動できていない(笠置シヅ子の歌もまた物語とは別に挿入されたような印象を抱いた)。そういうと殆どの黒澤映画がそう思えてしまうが。社会的な制度において女性が添え物程度であったことがわかるとも言えるが、黒澤が女性をあまり深掘ってないように思える。ラストで駆け落ちしようとした酒場の女は、松永を助けられないし、カメラも彼女の後を追わず、闇市に消えていく医者と女学生を追う。この時、女学生を導くのは医者である。

 ラストはジェンダー的な視点で見ればそうであるが、街を離れるという道が正しいわけではなく、そこに生き続け大衆に揉まれることもまた一つの生きる道なのである、ということの提示でもあるように思える。離れれば良いという話ではないのは、戦後すぐの生活した人々が一番感じたことだろう。

 あのドブ沼は松永の肺の象徴と台詞でも丁寧に述べられるが、ほぼイコールで結ばれているとも言える。本当に沼を汚すことが彼の肺を汚すことと同義なのだ。病は気からというような、結核を人々の醜悪な心が原因だと暴論を展開する。自然という驚異と人が対峙するというのは黒澤が持つ葛藤なのだろう。「羅生門」の森、「七人の侍」の豪雨、「蜘蛛巣城」の霧などなど。自然を尊ぶこと即ち人類の平和(健康)というのは、昨今の環境家が述べてることだが、実際戦争したりゴミの大量廃棄というのは倫理的な問題があるわけで、地球は鏡のようにそれを反射して人類へと反映させるんだから、あながち間違いではないのだ(この点はタルコフスキーも激同していることだろう)。ここでさらなるエクストリーム論を展開させてもらえるならば、昨今の環境活動家が芸術品ばかりを攻撃するのは、芸術が作られた時代の鏡としての役割も持つ中で、その鏡の役割を一時的に不能にする、つまり、本当の現実を反映しない鏡(芸術)のあり方の是非を問う行為なのだと言えるかもしれない。

P.S.
 松永が悪夢の中で見る、開けた棺桶に自分がいるというやつ、「スターウォーズ」は勿論、「野いちご」のあの夢のシーンにも影響を与えているのだろうか。「中にいたのは、俺だった!」という、この類の原点が今作なのだろうか。
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