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シェルタリング・スカイのdojiのネタバレレビュー・内容・結末

シェルタリング・スカイ(1990年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

これは勝手な妄想にちがいないんだけれど、後半の展開はジョン・マルコヴィッチ演じるポートの破滅への恐怖と、逆説的にそれを望んでしまうことを映像化したようなもののように思えた。ポートは丁寧に会話をする落ち着いた人物のようでありながら、突然大声を出すし作曲家としての自認もあやふやで、娼婦を買ったりと不安定な人物として描かれている。それでもキットに対する思いはどこかどすんと腹に決めているようなところがあり、同時にそれが一方的であることに自覚的でもある。かたやキットはポートじゃなくてはいけない理由が定まらず、冒頭の会話にあるように、つねに帰り道を求める「観光客」と、つねに行き先を探す「旅行者」のあいだにいる存在なのだと思う。

チフスにかかってからポートがどこか解放されたように思えるのは、じぶんの死のあとにキットがどんな行動に出るのか、その好奇心に満ちたからではないか。キットが彼の死を嘆くのはあくまで異国の地でひとりきりになる恐怖であって、その後キットは流れるままにアフリカの地に身を委ねていく。それは彼女が望んだ定まらないこころの究極のかたちであって、実現化することによってその危うさと愚かさのようなもの(これはつくり手の解釈でもあると思うけれど)が顕現する。その心許ない旅路はみていて苦しいと同時に、「それみたことか」と作者は思っているようにも思う。

極め付けはラストの原作者ポール・ボウルズ自身による語りで、「次があると思うなよ」というようなことばは、観光客にも旅行者にもならないポートへの糾弾として響く。それは戦争の勝利によって経済成長へと向かうアメリカの道楽としての自己探究への批判にもみえるし、現在でも変わらない、つねに可能性を求め続ける女性への批判のようにもみえた。そう考えるとかなり男性の一方的な視点による作品のような気もするし、キットのような女性に憧れてしまうかなしみがわかると同時に、ベルトルッチとボウルズの恨み節に嫌な気持ちになる。

そんな説教じみたラストのあと、たまたま隣の席にいた女性とすこし話すことになり、駅までの道を歩いた。映画や坂本龍一の音楽について話しながら、相手の路線に上がる階段の前で、「それではまたどこかで」と言って別れる。「またが来ると思うな」とボウルズの声が聞こえた気がした。ぼくは旅行者なのか、観光客なのか。
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