もっちゃん

FAKEのもっちゃんのネタバレレビュー・内容・結末

FAKE(2016年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

森達也監督のドキュメンタリーを見るのは今作が初めて。しかし、いろんな方面から話題に上る監督として有名だったのは知っていた。なので今回かなり楽しみにしていた。

結果から言うと、かなり楽しめた。監督の色を極力抑えて事実のみを映すドキュメンタリーというよりは監督自身が確固としたメッセージを打ち出し、それをストーリーとして仕上げるために監督自らどんどん介入していくという手法である。

では今作で打ち出したメッセージ(テーマ)とは何か。それは「真実と嘘の二面性」である。監督自身今作を作るうえで佐村河内氏に伝えた言葉として「私はあなたの怒りを撮りたいんではなく、悲しみを撮りたいんだ」という風に述べていた。つまり、今作は氏と新垣氏との関係をひっくり返すための告発型ドキュメンタリーにしたいわけではなく、その裏に隠されている様々な「欺瞞」と「真実のはかなさ」を撮りたいということなのである。

作中で登場する人物および我々はみな真実の中を生きているわけではなく、真実だと「思い込んでいる」ものの中を生きているに過ぎない。ある現象を語るうえで当事者のいろんな主張を取り入れた場合、絶対的な真実などは決して形成されない。だから、人間はどこかに適当な妥協点を見つけて、それを仮に「真実」として定義しているにすぎないということである。

ただ問題は「真実のはかなさ」ではなく、人々が目に映っている「虚構の真実」をあたかも自明のごとく信じ切っていることにあると監督は伝える。作中で某地方局が佐村河内宅を訪れ、番組出演の依頼を申し出るが、彼は拒否する。それによって逆に新垣氏が出演することになり、世論はまたメディアが報じる一面的な報道につられていく。

メディアは報じたいものしか報じないし、「面白いものを作る」という一つの共通項のもとに集ったいわば利益集団である(本来はそれではいけないのだが)。視聴者も見たいものしか見ないし、メディアの情報が真実であると信用しきって、ニュースで伝えられたことで一つの「免罪符」をもらったと誤解し無邪気に袋叩きする。

しかし、誤解することは誰にだってあるし、そのこと自体は悪いとは思わない。問題なのは自分が誤解しているのではないか、この袋叩きで苦しむ人の姿を自覚することができないその想像力のなさである。「自分は間違えることがある」ということにもっと自覚的になってもいいのではないか。

ラストは衝撃的な結末を迎える。ラストの「沈黙」は二つの解釈が可能である。一つは今まで作品に没入し、少しでも佐村河内氏を信用していた観客に不信を抱かせるというオチである。見事な作曲を仕上げた氏は一つの証拠を突き付けた。観客はそこで彼を信用をしてしまう。だが、彼の「沈黙」は鑑賞後に微妙な後味の悪さを残し、観客からその決定打を奪うのである。

それだけでも批評性に富んだ見事なオチであるが、もう一つ考えられるとすれば、あの場面では「沈黙」こそが正解だったのではないかという疑問である。佐村河内氏が仮にここで単純に監督の質問に対して首を縦に振るという行動をとった場合、監督(および観客)は彼を信用することができただろうか。作品としては確かに大団円を迎えるだろう。

しかし、佐村河内氏はそれをすることはない。というかできない。なぜなら「真実」という神話が危機に陥っていたことを最も肌身に感じていた氏にとってはその行動の薄っぺらさを誰よりも理解しているからである。「沈黙」。それこそが彼が唯一取りうる最善の答えであったといえるかもしれない。世の中は白と黒というわかりやすい対立項で成立しているわけではなく、そのグラデーションあるいは限りなくグレーなもので満ちているのである。