きゃんちょめ

未来惑星ザルドスのきゃんちょめのレビュー・感想・評価

未来惑星ザルドス(1974年製作の映画)
3.0
人間にとって大切なエロスとタナトスを、永遠の命と交換した世界に住む不死人(エターナルズ)たちと、そこに迷い込んだ男性性の象徴ショーン=コネリーの話。

戯画化された寓意的な話。永遠の命を手にした世界(ボルテックス)においては、歳をとるのが刑罰になっている。オルダス=ハクスリーの『夏、幾度もめぐりきて後に』がイメージの源泉。永遠の命によってアパシー状態になった人間たち。攻撃的で反政府的、無政府的な人間となった知識人たち、科学者たち。(しかも彼らは仲間の和を乱すという理由で永遠の老人にされてしまっている。)

老いることは、劣化だという思想は、今の日本にも見られる。それも、恐ろしいことに、ザルドスを超えている。その思想を強くもっているのは、むしろ、下層民だ。

いつの時代も上流階級の人間は、下層民を、「生きるか、死ぬか、セックスかの動物ギリギリ」にしておきたいと思っているに違いないのだ。それがブルータルズ(動物的で残酷)という名前に託されている。

ショーン=コネリーは、エターナルズに雇われて、限りある命を生きる下層民(ブルータルズ)を暴力で支配して、穀物を作らせているエクスターミネーター(害虫駆除人という意味)という中間管理職。ブルータルズは、言葉をしゃべることもできない。もはや動物である。一方で、ボルテックスに住むエターナルズはゲーテッドコミュニティを作り、人類の歴史2200年間の技術と知識を独占している。死んでもすぐにクローンを作って脳内の情報を生前と一致させて生き返ることができる。知識はもはや着脱可能なものになっている。

ショーン=コネリーが赤ふんどし一丁で暴れまわるのが変だという意見があるが、それは絶対にない。なぜなら、ジェームズボンドとしてレズビアンやら最強のロシア女スパイすらメロメロにしてきた胸毛ボウボウのショーン=コネリーじゃないとセックスの象徴になれないからだ。その相手役は『愛の嵐』の美女シャーロット=ランプリングである。キャスティングにも意図が感じられるのだ。その2人が最後はあまりにもありふれた普通の人間として、ちゃんとセックスして、ちゃんと老いて、ちゃんと子供を産んで、ちゃんと家庭を持って、ちゃんと白骨化して、無に還る。それがいかに素晴らしいことか。【あまりにも普通のことが、あまりにも尊い。】

この映画は、低予算映画だからすごいのである。低予算だから、映像効果が安っぽい。安っぽくみえるから、技術が魔術的に見える。縄文人がiPhoneを見たら、「バカみたいに安っぽい」と言うに違いないのだ。低予算映画だからこそできる効果なのだ。

アーサー・C・クラークが、『近未来ではなく遠未来のテクノロジーは、むしろ私たちにはシンプル過ぎてアホみたいに(魔術的に、中世みたいに)見える。』と主張したが、まさにこの映画はそれである。ザルドスという石像の頭は観客をバカにしてるようにしか見えない。アーサーという職業として神をやっている男は、思いっきり顔にマジックでチョビヒゲを書いていてただのバカにしか見えない。


さすが、ゴールデンラズベリー賞。ゴールデンラズベリー賞にノミネートされた映画は恐ろしくつまらないのに、なぜか、何度も見たくなる。おそらく僕は、この映画を、鼻で笑いながらも、バカにしながらも、あざわらいながらも、何度も見てしまうだろう。

この映画は、俺を呪縛してやまないSF(サイエンス=フィクションかつ、スペキュレイティブ=フィクション)である。
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