イホウジン

時をかける少女のイホウジンのレビュー・感想・評価

時をかける少女(1983年製作の映画)
3.8
牧歌的な世界観と、キレッキレのストーリー

今作が素晴らしいのは、「青春映画」「アイドル映画」好きも「SF映画」「カルト映画」好きもどちらにも受け入れられる映画に仕上がったことだろう。
まず「青春映画」「アイドル映画」として。原田知世の可愛さは言わずもがなとして、脇を固める登場人物たちも皆適役だ。三角関係の描写もそれ自体が映画の主題とならずとも、しっかりと映画の中で効いている。学校の群像的な描き方の巧みさはさすが大林監督と言ったところだろう。そして何よりあのエンディングだ。他の方のレビューか何かであれを「カーテンコール」と称するものがあったが、後半のカルト的なSF映画の様相から一転してあの緩いエンディングに変わるのは見事だ。始めと終わりを「青春」「アイドル」要素に全振りしたことで、映画全体のテイストも表面的にはそちらの方向に寄って、大衆向けのエンタメ映画として完成されている。
しかし、今作の魅力を語る上で「SF映画」「カルト映画」としての今作を外す訳にはいかない。特に、押井の「ビューティフルドリーマー」や今の「パーフェクトブルー」にも通ずる“日常が徐々に非日常に侵食されていく様”の描き方が素晴らしい。前にあげた2つがアニメ的な表現を持ってしてやっと可能だったそのストーリーを、実写で達成した大林監督は本当にすごい。確かに主人公の違和感や能力を演出する際に映像的な加工が施されるパートもありはするが、基本的には現場の演出と登場人物の演技に全てが掛かっている。複雑な時系列の交錯やその違和感、終盤の種明かしなど、中々に常軌を逸した展開が相次ぐが、それらが単なる演出の一部分としてではなく、映画のテーマとして前面に押し出すことはとても難しいことだろう。1歩間違えればストーリーが空転し、ただの実験映画になりかねないからだ。
その空回りを抑えたのが「アイドル映画との折衷」であろう。映画の本流はカルトSFとしつつも、表面的にはアイドルを前面に出した青春映画でなければならないという自己規範を持ち、だからカルト的な要素を含みつつもあくまで大衆的という奇妙な構造が生まれたのだろう。今作が結果的に万人の支持を得られたのもそういう所からきたと考えられる。大林監督の他作を観るに、今作の“成功”はかなり戦略的なものであったに違いない。

前半がやや間延びしていたかなという印象。後半の劇的展開を思うとあれくらいの日常の描写が必要だったのかもしれないが、それでも淡々としすぎていたように思える。そのうえ終盤までそれらが映画の本流に関係あるということも発覚しないため、割と退屈でもあった。
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