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トキワ荘の青春のninjiroのレビュー・感想・評価

トキワ荘の青春(1995年製作の映画)
3.8
後に残るのは喪失感ではない。元より失うことなど問題にはしていない筈だと我々は理解しているからだ。しかし心に空いた空白が、騒がしかった毎日が、少しずつ静かになって行く優しい空白が、毎夜毎晩頼みもしないのに尋ねてくる。まだやれるのか?私はこう応えるようになった、わからない。

「トキワ荘の青春」が描くのは、日本人なら誰もが知っている伝説的漫画家達が過ごした下積み時代の、取り立てて何らドラマティックではない日常周りの風景。映画の中ではそうしたレジェンド達の直接的なドラマにフォーカスすることを極力抑え、彼らを囲むそれ以外の人々に及んだ微かな波動を切り取ることで、今日的なメインストーリーであるところの「トキワ荘」ではなく飽くまで「青春」の無常を描く。
その波動の受け手となる人々のドラマは、藤子不二雄A氏の描いた「まんが道」に氏の視点から記されている部分もあり、起こった事象などの多くは当然クロスオーバーするものの、視点を変えればこれ程までに見え方が違うものかという、個々の人間の青春期における主観性の高さを実証するサンプルにもなり得るのではないかという程印象が異なる。
「まんが道」はA氏自身の感じた痛み、苦しみが主観的に描かれ、そのストーリーの推進力ともなっていたが、対して本作に於ける主人公「寺田ヒロオ」通称「テラさん」の感情は劇中殆どつまびらかにはされない。しかし、淡々と描かれる日常の中で、日々折り目正しく飽くまで優しく正しく生きることを「やめられない」窮屈さだけが只管に描かれ、じわじわと真綿のように彼と彼を観る我々の心を圧迫してゆく。
手塚治虫がトキワ荘を去った後結成された「新漫画党」のリーダーとして、また最年長の頼れる兄貴分として、そして漫画家としてのキャリアの一日の長を取って、全てにおいてつきまとう「自分はこうあらなければならない」という幻想は、実際に申し分なく優しい人格者であるはずのテラさんをゆっくりと追いつめてゆく。自身が手塚治虫に示して貰ったような教示が出来るのか、余りにも難しいその立ち位置は、本来生半可な経験則だけでカバー出来る様なものではない。そして世の中の変化もテラさんの味方にはならない。古き良き倫理や折り目正しく真面目にコツコツと生きることを説いた旧来の漫画誌の廃刊とすれ違うようにして週刊漫画誌の創刊、大量消費社会への足音が聞こえてくる。
いつまでも変わらず同じなどということはあり得ない。あの時新しかったものは直ぐにまた新しいものに塗り替えられて行く。いや、寧ろあの時トキワ荘に住んだほんの数人の天才の手が自らの青春を塗り替えて新たな世界や夢を紡ぎ出したのだ。
同じ屋根の下に住む天才たちが新しい時代を切り拓いてゆくのを、毎日同じような折り目正しい日常の中で眺めるどうしようもない哀しさ。映画は徐々にその対比構造を明らかにし、遂に優しくも残酷なラストシーンへと雪崩れ込んでゆく。
本来誰にとっても青春などというものはそう長くは続かないものだ。だからこそ青春の一瞬一瞬は尊い。
ラストシーンの野球少年が着ていたユニフォーム、彼に投げ返したボール、折り目正しく健全な挨拶。
それはテラさんの過ごした「トキワ荘の青春」がそのままそっくりノスタルジーに変わってしまった瞬間だったのかも知れない。

インターネットもない時代、うっかり「まんが道」も読まずに観賞した公開当時の観客にとっては非常に解りにくい作品だっただろう。今般においては、最低限wikiなどで「寺田ヒロオ」の人物を調べてから観賞することをお勧めする。テラさんの晩年、トキワ荘のメンバーを集めて急遽行われた酒宴の模様を収めたホームビデオが残されているが、併せて観ると落涙を禁じ得ない。
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