本作は音楽担当の早坂文雄の遺作であり、ストーリーの発端は、彼が口にした核への不安が元になっている。
「終」が出てから、2分間、真っ暗な中に遺作となったテーマが流れ続ける。
この2分は、映画の構成要素としては長いけれど、この映画を振り返って考えるにはあまりにも短い。
さて、本作を観て連想した作品を列挙します。
「ゴジラ(1954)」
第五福竜丸事件を受けて、同年の内に製作・公開までなされた反核映画の金字塔といえば、言わずと知れた「ゴジラ」。続篇の「ゴジラの逆襲」は翌1955年に公開された。こちらに登場するアンギラスもゴジラ同様水爆実験の影響で蘇ったという設定ではあるものの、2作目にしてすでにゴジラはジャンル映画になってしまった。
その代わりに、同じ55年に公開されたのが本作のほうが、「ゴジラ」の正統な続篇とさえ思えてしまう。
「東京物語(1953)」
「上京」と「移住」はまったく異なるものかもしれないけれど、親の行動を迷惑にしか感じない子供たちという構図が共鳴する。
さらに、子供たちのうち、一人だけは心を寄せてくれるという図式も。
「東京物語」ではそれが皮肉にも血のつながらない嫁であったわけだが、本作では逆に、血は繋がっている妾腹の子らまでもが反対している。
「インターステラー(2014)」
こちらは移住を成しえた人々が登場する作品だが、彼らだって移住するに際して、「1組目の家族」もしくは「第一陣の集団」があったはずだ。「当たり前の行動」は、「初めて行動した人」とそれに続く「フォロアーとして行動できた人」がいて、ようやく「当たり前」になる。
「インターステラー」での「1組目の家族」はいったいすんなり移住したのだろうか。いや、本作と同じような葛藤がなかったはずはない。
人は非日常に直面すると、正常化バイアスがかかり、それを日常だと認識しようとするものだ。そんな中で、「初めて行動する人」の勇気を考えずにはいられない。
「ターミネーター2(1991)」
三船扮する中島老人にサラ・コナーを重ね合わせずに鑑賞することは不可能。
1作目を知っている我々は、2作目でもサラ・コナーのほうが正しいとわかって観ているけれど、中島老人をなかなか同じ視線で見つめることは難しい。
(と、いいながら、実は私はごく序盤から、ものすごく感情移入してしまったけれど)
「天国と地獄(1963)」
山崎努をスクリーンのこちら、安全圏から断罪しようとしていた我々観客は、ラストのラストで反転する視点に梯子を外されて呆然とすることになる。この構造はすでに本作が備えていたものである。
しかも本作では、ご叮嚀に中村伸郎扮する医師が「狂っているのは彼なのか、我々なのか」と言語化までしてくれる。
「希望の国(2012)」
もちろん、311以降の世界に住む我々は、どうしたってこれを連想せずにはいられない。