YasujiOshiba

こわれゆく女のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

こわれゆく女(1974年製作の映画)
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備忘のために:

○ みた。まいった。すごい。

○ 名前だけは知っていたのに、なかなかチャンスがなくて、BDボックスは買ったおいたのだけど、訳あってシラフのままの今宵、ようやく見ることができた。

○ 文学の名作なら「なぜ自分の気持ちが書いてあるのか?」と読者を驚かせるのだろうけど、この映画は、「なぜ自分が見たことのある人がスクリーンに映っているのか?」と驚かせてくれる。そこまでリアルなのだけど、すべてはフィクションなのが、すごいのだ。

○ 原題は A woman under the influence 。「influence 」というのは「in-」 (中へ)と「fluence」(流れ)という組成。古くは、天界からの力が「内側へ流れ込む」(in-fluence) ことで何かが起こると考えられていたらしいが、そうした力の「影響下にあること」が「under the influence」で、例えば「under the influence of alcohol 」(アルコールの影響下にある)。
 では、この映画の女(a woman ) は一体何の影響下にあるというのか。ひとつには時代がある。1974年といえば、世界的な異議申し立ての時代のただなか。とりわけウーマン・リブ(女性解放運動)という背景は大きい。じっさいジョン・カサベテスは、ジーナ・ローランズから「当時の女性が直面している困難についての戯曲がやりたい」と言われたという。こうして書きあげられた戯曲は、ジーナを驚かせる。「わたしはセクシストではありませんが。男の人がこんな特別な問題( this particular problem)を理解できるなんて信じられなかったのです」と語ったという。
 「こんな特別な問題 」というのは、少なくともジーナには男性が書けるとは思えないような問題、つまり女性にしかわからない(と思えるような)問題だ。それは、この時代に生きる女性に通底しながら、さらには時代を超えて、もちろん男性をも巻き込んでゆくような問題。
 しかし、それは「狂気」ではない。同じ時期にイタリアで活躍したフランコ・バザッリャに従うなら、「狂気」とは、拘束され、隔離され、あるいは電気ショックを受けることで、追い込まれてゆくもの。人はただ、あまりにも人間的であることで、おもわぬ「危機」に陥いることがあるだけなのだ。
 メイベル(G.ローランズ)は、そんな「危機」にある女性だ。その自覚もある。夫のニック(P.フォーク)もわかっている。むしろ人間らしさゆえの「危機」のありように惹かれてさえいる。子どもたちだって、そんな母親が大好きだ。それなのに、なぜ彼女は、「狂気」のレッテルを貼られて施設に隔離されることになるのか?「狂気」にかられていたのは、彼女ではなかったのではないのか?そんなふうに考えるとき、原題にある「under the influence (of...) 」 に続く部分が、おぼろげながら見えてくるようには思えないだろうか?

○ ニックとメイベルは、コンタクトゾーンを生きている。ふたりはそれぞれ惹かれあっているが、話している言葉のコードが違うのだ。けれども愛によって、ふたりは出会い、子供を授かり、家庭を保っている。お互いのコードは、あいかわらずズレたままだが、それでも相互に影響しあう。古い人格が少しずつ壊され、新しいものが生まれつつある。
 その意味でラストシーンは感動的だ。「あの忌々しい皿を片付けようぜ」というニックの言葉から始まるテーブルの掃除は、映画的にも、建築的にも魅力的なのだけれど、なんといっても、鳴り響く電話(おそらくはニックの母親からのもの)を無視するニックと、そんな彼を見つめるメイベルの微笑みが、ほんとうに明日は良い日になるだろうと思わせる。だって、ニックはイタリア系。その時までのマンマは絶対だったのだから。
 そういえば、メイベルの父親が「スパゲッティは絶対食べないぞ」というセリフがあった。メイベルの一家は Mortensen という性だけど、これはデンマークで一般的な名前。イタリア系の男と結婚し、娘がスパゲッティを作るようになったことを嘆いているわけだ。それでもこの父は、娘が本当に助けを必要としているとき、「(私のために)立ち上がって」というメッセージを聞き逃してしまうことになる。
 結局そのメッセージは、ニックが受け取るほかない。だからこれからもまた、たとえ自分の父親が嫌おうとも、メイベルはそんなことおかまいなしでスパゲッティを作ることになる。手伝っているニックのほうが手つきがよいのは、もちろんイタリア系だからということなんだろう。 
YasujiOshiba

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