nere795

山猫のnere795のレビュー・感想・評価

山猫(1963年製作の映画)
3.8
17世紀の産業革命をいち早く果たしたイギリス、18世紀フランス革命以降のブルジョワジーの進展をみたフランスと同時期にイギリスからの独立を果たしたアメリカを、先進近代国家とするなら、ドイツ、日本、イタリアはいずれもこれらから遅れること19世紀末になって、上からの改革により、統一民族国家としての近代国家建設を始めることになる…、ってのはまさに世界史の教科書に載ってるような話だが

イタリア王国成立は1961年、日本の明治維新が1868年であって、きわめて時代的に近接しているだけでなく、近代国家として民族的な統一体を形成するにあたり、2つの可能性があったという点でも極めて似ているのである

つまり、イタリア「王国」になるには、王様が必要なのであったが(この点、日本人的にはあまり理解しがたいかもしれないが、王というタイトルは、勝手には作れない、歴史的に認められた王位だけが王たる資格があるし、逆に言えば、たとえローカルな地域の王であっても王である以上は、イタリア王になる資格があると考えられていた)、19世紀イタリアの領域にはすでに、2人の王様がいた

一つがトリノのサボワ家であり、これは本来は公爵だったのが、サルディニア王国を手に入れることにより、王位を得たのだった
もう一つは、両シチリア王国のブルボン家、ブルボンといっても、スペイン系のそれであった ナポリ郊外のバカみたいにでかいカセルタの王宮は、この両シチリア王家のものだったのである

で、結果的には、ガリバルディがシチリアを「征服」して、それをトリノのサボワ王に献上することにより、両シチリア王のイタリア王になる目はついえる

この間の事情は、江戸時代末期、尊皇討幕派と佐幕派の闘争に類似している
結果的には、佐幕派は破れたが、旧幕臣の中には榎本武揚みたいのもいたわけだが、この「山猫」での公爵は、新政府側に就くことはなかったというわけだ

シチリアの政治体制の風土は、両シチリア王国という征服王朝が長きにわたって成立してたことにより、社会が現地人民層と外来支配層とに完全に二層化し、時に鋭く対立し(例えば、有名なシチリアの晩鐘事件等)、しかし、島という隔離された地理的特質から、その構造がそれなりに安定化していた、ということにある 近代化の歪として知られる、マフィア、ンドロゲタ等も、この政治体制と無縁ではない、つまりは外来支配層は、ローカルな非公式権力の助力なしには、その不安定な統治を維持できなかったからである

こういった背景の中で、いわば、図式的な人物像がこの作品では配されることになる 『若者たちのすべて』で、ネオリアリスモ的な手法に沿っていたビスコンティが、本作品で、貴族趣味に転じたというのは、あまり正当な理解とは言えず、むしろ、ここでも、シチリアの政治的状況を描写するというリアリスモは徹底されたとみるべきであろう

それは、貴族社会だから庶民生活とは関係がない、のではなく、現代に続く、シチリアの問題状況を読み解くにはある意味必須とすらいえる、その社会構造の理解のためのリアリスモだったのだと評価したい

従って、むしろこの作品における限界は、分かりやすいほどの単純化された人物像の描写にあるのであって、それはネオリアリスモが、ドキュメンタリ-とは一線を画するその一般的限界の発露でもある
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