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プレステージの教授のレビュー・感想・評価

プレステージ(2006年製作の映画)
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「手品」というタネも仕掛けもあるものを全編「映画」というものになぞらえ「劇」の中での「化かし合い」を延々と見せられるのは、それもまた技術の日進月歩による競い合い、とも解釈できる。

その解釈の余地は、ある種の深読み、を前提にされていて、相変わらずのクリストファー・ノーラン監督の「要するにこういうことが言いたい」という病理。

その「技巧的に見せたい」という探究心には頭が下がるが、それを感じれば感じるほど、相変わらずうんざりしてくる。

少なくとも「映画」の表現における最大の快感は「ドンデン返し」ではない。
「映画」という表現にしか不可能な「時間」を人間の意識に錯覚させる瞬間、を感じたいのだ。

ノーラン作品を追いかけていていつも思うのは、その辺りの作劇に対する思慮のなさ、に尽きる。
まさに監督本人の言うように「小説を最後から読む」ように展開される物語。それが「ミステリー」だと錯誤しているでは、とすら思う。

ここに「マジシャン」たちが追求する「芸」に対するこだわりや、信念は描かれない。
芸のためなら女も泣かす、という業もない。
「映画」すらも化かし合いに過ぎない、という乾いた笑いがあるだけだ。
それなのに、何故、あのマイケル・ケインは「さも正しい」という態度でいるのだ?クリスチャン・ベールは娘を取り戻して「めでたしめでたし」なのだ?
ヒュー・ジャックマンは何故、自身の罪に対して「因果応報」の結末を迎えるのか?

登場人物が不幸である映画はきらいではないが、ここには幸福も不幸も描かれず、ただただ表層的な人物たちのガヤガヤしたやり取りがあるだけだ。
「プレステージ」=「偉業」と訳された、真の意図はこの登場人物たちの中にはなく。
「テスラ」にこそある、というもはやどうでも良い真相もノーランらしさだとも思う。

ミスリードを重ね「考察」を要求する映画づくりに「鳥肌が立った」とでも言わせたい姿勢、に僕は心底不快感を感じる。
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