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エレファント・マンのぴのしたのレビュー・感想・評価

エレファント・マン(1980年製作の映画)
3.4
デヴィッド・リンチ監督作品。

奇怪な見た目で人々から見世物にされていたジョン・メリック、通称「エレファント・マン」。彼を保護した医師フレーヴスは、ジョンが実は読み書きもでき、精神的、知能的には健常者と同じだということを知る。しかし、「見た目は恐ろしいが、心は教養に富む」というジョンの特徴に惹かれ、病院には連日多くの文化人たちが彼を好奇の目で見舞いに訪れるようになり…。

この映画のミソは、医師フレーヴスが「自分も、ジョンを見世物にしていたバイツと変わらないのではないか」と悩むところにある。「私は善人なのか、悪人なのか」というフレーヴスの独白が重い。

実際、暴力を振るいジョンを見世物にするバイツの元から、ジョンは再びフレーヴスの元に帰ることになるのだが、結局そこでも劇場で「こんな醜い人も差別せず、劇場に招いた徳の高い私」を演じる女優のためにジョンは大勢の前で「見世物」にされてしまう。

ラストシーンの解釈はいろいろあるのだろうが、ジョンは自分も他の人と同じ人間だということを主張するかのように仰向けに寝て、(頭が大きすぎるから仰向けに寝ると死ぬらしい)自殺したのではないか。じゃないとその後の最後のナレーションが意味をなさない。ジョンは死んだけど、ジョンのような人はいつの時代にも現代にも必ずいるのだと。

フレーヴスおよびジョンを人間として扱おうとする人々の問題は、とにかくジョンに向けて「〜してあげる」「(化け物の割には)知能が高い」という見下した意識が垣間見えてしまうところにある。

それと、結局彼らがジョンを助けたり人間扱いするのは、ジョンが「見た目は世界一醜いのに、中身は教養に富む」という「面白い」キャラクターあってこそなのだ。例えばサーカスでジョンを見送った小人症の人などはあのまま見世物として生きていくだろうが、かの「文化的で優しい人々」は「ありふれた不幸」を持つ彼らには毛ほどの関心も払わない。結局彼らが関心を持つのは「世界一不幸な見た目」を持つジョンでしかなく、「世界で2番目3番目の不幸」には興味がない。だから彼らも結局は「物珍しいもの見たさ」でジョンの部屋に押しかけて「ショー」を楽しむ下世話な人間たちと根性は同じなのだ。

この時代にその辺までも示唆して描いている点でこの映画はすごいなあと思う。ただ、この映画の持つ差別への疑問には限界もある。フレーヴスが最初に思ったように、本当にジョンが「頭が弱」かったらどうだっただろう。ジョンが受けられたような「人間的扱い」は受けられなかったはずだ。ジョンが「人間的扱い」を受けられたのは、知性がしっかりしていたからで、知性がしっかりしていなければ(あるいはしっかりしていてもそれを他者に伝えるすべがなければ)、この映画では差別は正当化されてしまうことになる。この映画の持つこのような内在化された差別意識は、時代的な限界と言えるのかもしれない。