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エレファント・マンのriyouのレビュー・感想・評価

エレファント・マン(1980年製作の映画)
4.3
ネタバレあり。
いくつかの観点から書いてみました。



工場

作中所々で映し出される象のイメージはエレファントマンの起源に関わる悪夢であるが、加えて、象のイメージと同じくらい挿し入れられるのが工場のイメージであり、機械のイメージである。象は、巨大さとそれに伴う圧倒的なパワーへの畏怖の気持ちを我々に起こさせ、同様に工場機械も、巨大で人間には抗うことのできないパワーへの畏怖の念を掻き立てる。ガシャンガシャンと動く複雑で単調な動作を見ていると、もし巻き込まれたらという想像をせずにはいられない。私のこの「綺麗」な身体がグチャグチャになってしまうかもしれない。エレファントマンになってしまうかもしれない。本作は白黒であることで排煙に塗れた産業革命「華やか」なりし19世紀イギリスの雰囲気が感覚的に伝わってくる。象のイメージとともに工場のイメージが挿入されることから明らかなようにエレファントマンを生んだのは工場機械への我々の畏怖である。大きな機械と機械の隙間で働く労働者像の恐ろしさである。



産業革命以後にはますます医療が発達していった(もちろん宗教改革や市民革命があったりペストに蹂躙されたり、そんな複合的な事情から病院医療は大きく発展していった)。この映画の舞台は病院である。そこの手術や看護体制などは現代の病院とほとんど変わらないように見える。医療の高度化とともに人間が死ななくてなっていく時期である。前近代だったらエレファントマンはとっくに死んでいる存在ではないか。気管支炎で簡単に死んでしまっていた時代もあっただろうが、気管支炎では死なずに済むくらいには発達している。
そして人が死ななくなるほどに、人が生まれなくなっていく。先進国ではたいてい出生率が下がっていく。
そういう性的に不活発な状況に置かれた男性を問題視あるいは揶揄して「去勢された男性」という言葉が聞かれたりする。試みにここを論点にしてみよう。
劇中現れる象の鼻はストレートに男根的であり、そこに重ねられる工場煙突のイメージもまた同じく男根的である。本来その持ち主だった男性たちは工場に「性」能を奪われ、工場煙突の男根の下で使役される存在となってしまった。それは確かに去勢されたと言える状況かもしれない。しかし本当の悲劇は「実際には」去勢されていないことなのだ。劇中でわざわざ言明されている通り、エレファントマンは「性機能だけはしっかりしている」のである(性のメタファー的な映画の読み方は本来好まないが、今回はこの言明があるからこういう批評を試みた)。像=工場機械にデコボコにされた身体に反して性器は正常なのだ。欲望することはできるのに満たされることはない。なんて悲しいことだろう。

映画史

映画の歴史を振り返ってみると、最初期の庶民向けの映画は見世物小屋などと並んで移動遊園地の一画を占め、珍しさと妖しさに惹かれて少人数で覗くものだった。映画は本来見世物だった。それが徐々に評判を呼び、今のシネコンの巨大な劇場において大人数で観るスタイルにまで進化してきた。しかし興行のスタイルは変わっても、その本質は変わらず見世物であり続けている。たとえば装置的に3Dだったり4Dだったり、より刺激的で珍しいものを体験するために人は映画館に行く。映画は、日常では出会えないものとの出会いを提供することで、大衆の好奇心を満たしてくれる。
この映画においてエレファントマンは一貫して見世物である。悲しいことに彼は見世物小屋から抜け出した後も生涯見世物であり続けた。病院で暮らすようになっても下品な市民から上流貴族までたくさんの人が珍奇な象人間を見に来た。そして最後、彼は大きな劇場で見世物になるのだ。もしかしたらこれは意地悪な見方かもしれない。しかしながら、少なくともあの女優は素直な愛を持って振舞っていたと考えるにしても、大勢の観客たちは珍奇でかわいそうな客に慈悲を与えようといった程度の拍手を送っただけだろう。飽くまで彼は見世物だったのだ。
エレファントマンが汚い小屋から大劇場までスケールアップしながら見世物であり続けたのは、映画が小屋(あるいは覗く箱キネトスコープ。エレファントマンも頭に布を被っているとき覗く存在であり覗かれる存在である)から巨大な映画館までスケールアップしながら見世物であり続けたのと同じである。この映画は映画の歴史と呼応した映画となっているのだ。映画は、トーキー→カラー→3D→4Dなどと形態そのものが進化したり、あるいは映像技術の進歩とともに新たなカメラワークや文法、ストーリーを編み出したりして、より珍しくて「なんか凄いもの」を提供しようとしてきた。してきたというよりそうしないと生きられなかった。
同じくエレファントマンも、より過剰に見世物としてあり続けないと生きることができなかった。あのまま小さな見世物小屋に居たとしてもいずれ飽きられて商売にならなくなり捨てられただろう。モデルとなった実在のエレファントマンも見世物小屋の興行が振るわなくなり雇い主に捨てられている。
エレファントマンは見世物であり続けなければならず、彼にとって横になって安らかに眠ることが死を意味するように、映画も見世物性を常に更新し示し続けなくてはならないのである。映画の歴史を鑑みたとき横になって休むことができない映画の苦しさも感じた。

キリスト教

この映画はキリスト教的価値観が色濃い映画でもある。劇中エレファントマンの知性は何によって証明されるか。彼が聖書の一節を暗誦したことによってである。これは我々にはなかなかピンとこない。神の言葉である聖書を読めるのは人間だけである。サルやその他の動物は読めない。逆にいうと聖書を読める者が人間であり聖書を読めない者は人間ではないのだ。
加えて彼は病院の居室から先っちょだけが見える聖堂の模型を想像で緻密に作り上げる。想像でということは架空の聖堂を創造しているとも言える。神の派出所たる聖堂≒教会を精緻に創造できるということも神に祝福されている証と言うことができる。
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