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A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリーのriyouのレビュー・感想・評価

4.7
ネタバレがあります。

 “存在のゆらぎ”とでも呼びたいような何かがある。私たちにとっての世界が、その本筋から一瞬外れるような出来事である。家が突然軋んで音を立てたり、電球の光が突如強弱を繰り返して揺らめいたり、ふと気付くと天井にどこから来たのかわからないふわっとした光の離れ小島が漂っていたり、夜中にいきなりピアノが鳴ったりする。不意に世界のよく知られた均衡が破れ、私たちの周囲はある曖昧さをまとう。なにか“物”とは別のしかたで存在することの可能性が、肯定的にであれ否定的にであれ視界にぼんやりと浮かんでくる。世界が他の可能性へと開かれる。
 上に列挙したような“ゆらぎ”はすべて劇中で起きたものだが、それらは常にゴーストの周囲で組織されていた。ゴーストのそばで本棚からいくつも本が落ちることもあったし、写真立てが棚から落下することもあった。あるいは、ゴーストに見守られながらパイを食べるルーニー・マーラの腕の上で、淡い光が揺れていることもあった。すべての出来事の因果関係に立ち入ることはできないけれど、“存在のゆらぎ”と呼びたいような出来事どもの中心にゴーストがいたことは間違いないだろう。
 さらに、ゆらいでいるのはそうした日常の出来事だけにとどまらず、ゆらぎを組織するところのゴースト自身もまた絶えずゆらいでいた。周りで生活している人々にはゴーストの姿が見えていないようだし、ときに彼は壁をすり抜けたりもした。その一方で、彼にはコップを掴むこともできるし柱を引っかくこともできるのである。“物”としての在り様がゆらいでいて、曖昧な状態にある。そこでは空間が奇妙に歪んでいて、彼に反射した光は周囲の瞳に決して届かず、物質間に働くはずの力は恣意的に選別されて無効にされているかのようである。
 そのうえ、彼にとっては時間も一定した形をとらない。周囲の人々と同じ速度で時が進んでいるように見えるときもあれば、数日が瞬く間に流れていくこともあるし、何百年も昔に瞬時に遡ることもある。彼の身体は空間と時間の両方において引き裂かれていて、不安定な状況にあると言える。まさしく存在として“ゆらいで”いるのである。
 ある局面で彼が中間的な状態をとることは、ほかでもなく彼自身が生と死の中間項たるゴーストであることと並行している事柄だろう。

 ここまで、ゴーストの曖昧でどっちつかずな性質を強調してきたが、他方で彼の相貌は少しも曖昧さを帯びていないという事実を指摘したい。伝統的な幽霊表現としての透明感や浮遊感は一切見られない。むしろその身体は完全に光を遮り、重量感を持っている。では彼が視覚的に如何にして幽霊なのかというと、布を頭から被って体を覆った姿に依っている。この映画においてゴーストをゴーストたらしめているのは、ただ一枚の白い布なのである。
 布は、彼がゴーストであることを肯定するように働いている。私たちの瞳の焦点はひたすら白い布に合う。そこに合わせることしかできない。なぜなら布が視線を遮るからである。布はその肯定性の以前に決定的な否定性を発揮しているのだ。ふだん私たちは服を“着なければならない”。それは保温のためでもなければ、美しくあるためでもない。まず、隠すためである。第一に布は否定として機能するのだ。

 ゴーストの姿を見た私たちは、人間が布に覆われていると思う。布の向こうにはケイシー・アフレックがいると信じる。しかしそれは確かめようのないことで、スクリーンに映っている一枚の布という表層だけが私たちにとって確実なものである。
 その白い布の身体にはふたつの黒い目だけが印されている。動く眼球も収縮する瞳孔もないから、視線の向かう先は常に曖昧である。見たい方向があるなら、首を回さなくてはならない。あらゆる関節が曖昧で、目以外の器官がないので動きをゆるくて拙く、それがかわいらしさを演出している。彼が無心に柱を引っかくとき、彼の手先は布に覆われた丸いかたまりでしかなく、不器用で心もとない。悲しみに暮れるルーニー・マーラの背中を手でそっと撫でるときも、彼の手の拙さが哀愁を誘い切なかった。
彼について確かなのは布だけであり、彼の不思議な魅力は布に依っているのである。
 では、布はどうしてそこに存在しているのか。それは自宅の前で交通事故に遭ってしまったケイシー・アフレックの遺体に、恋人であるルーニー・マーラが掛けてあげたからである。なぜ遺体に布を掛けるかというと、やはり隠すためである。
 当然、布が美的な意味や社会的な意味を肯定するように機能することもあるだろうが、それは後から為される。布はまず否定する。長方形の白い布は、隠すために必要とされる最もシンプルな形態であろう。そんな白い布が翻ってゴーストという生とも死とも“別のあり方”を積極的に支え、もはや表層において彼そのものとなり、彼のかわいらしさや愛らしさを形作っている。そこには、否定と肯定の同居したひとつの美しくて薄い層がある。
 帰するところ、ルーニー・マーラの演じた布を掛ける行為が、彼女の恋人をゴーストにする決定的な契機となったに違いない。彼女の行為の準備された自然さが、日常と幽霊とをなめらかに接続せしめたのだ。彼の死の以前から、ベッドに横たわるふたりの体は白い布に覆われていたし、ピアノの音に起こされたルーニー・マーラは布を体に巻き付けながら部屋の様子をうかがっていた。隠すことは反復され、着実に準備されてきたのである。
 また、隠し隠される関係は布をめぐるものだけにとどまらない。ルーニー・マーラには、その家での思い出を記した小さな紙片を去りゆく家のどこかに隠す習慣がある。彼女は恋人と過ごした家から引っ越すときも、リビングの柱の隙間に小さな紙の欠片を密かに隠して行った。
 私がここで浮かび上がらせたいのは、“隠される人”としてのケイシー・アフレックと、“隠す人”としてのルーニー・マーラの姿である。
 ゴーストはみな現世に何か未練があって留まっているらしく、自分の願いが果たされるのを待つように彷徨っている。彼の場合、それは彼女の隠した小さな紙片であった。そこに書かれた言葉を見たいという欲望が彼をこの世に引き留め続けていた。彼は”隠された人”に違いなく、だから見たい人でもあるのだ。彼は彼女の隣に佇み、優しく見守り続けた。一方的に無償の視線を送った。
 ここで重要なのは「一方的に」ということだろう。ゴーストの姿は周囲の人には見えなかった。見え方に齟齬がある。ゴーストと周囲の人の間に齟齬があるということにとどまらず、私たち観客とゴースト以外の人物との間に齟齬がある。彼女たちにはゴーストが見えない。しかし私には見える。私たちは幽霊の次元で鑑賞していると言えるだろう。見ることについて観客は優位に立っている。登場人物と私たちとの齟齬が生み出すのは、人々がこぞって見えないふりをしているかのような不思議な光景であり、それが滑稽でかつ魅力のある画面になっている。
 ところで、彼が見ることへの欲望からゴーストであり続けたのは確かだが、同時に地縛霊であったことも否定できないだろう。彼は土地に拘束されていた。すっかり時が経ち、元の家が取り壊されて昔の面影はかけらもない高層ビルに変わってしまい、もはや彼女の言葉は永遠に手に入らないという段階に至っても、その土地にこだわって居座り続けた。そして彼はビル群のまばゆいカラフルな明りに照らされながらビルの屋上に立ち、飛び降りた。どこかへ動きたくてもその土地から離れることができない彼は、重力に身を任せて落下することで、土地の上を垂直に移動してみせたのである。思えば彼はずっと落下に魅せられていたようだ。夜中にピアノが音を立てたときには、まず「何かが落ちたんだろう」と落下に言及していた。ゴーストになった後には、本棚から本を落とし、飾ってある写真立てを落とし、食卓のコップを落とした。
 土地が価値を持つのは重力があるからだ。私たちは常にどこかの土地に足をつけている。逆に土地が価値を持つということは重力の存在を示唆するのではないか。彼が地縛霊であることと、彼が落下に執着し落下を組織することは無関係ではないだろう。

 ところで、彼が起こした落下のうち、写真立てとコップに関しては同じ母子家庭の一家の前で為されている。曖昧なゆらぎを組織するにとどまっていたはずの彼が、この一家の前では極端に攻撃的に振る舞う。曖昧さの微塵もない霊的な現象をいくつも起こすのである。コップを持ち上げて落とし、棚にしまってある食器を片端から取り出して壁に投げつけ、子供たちの寝室のドアを開ける。一家にはゴーストの姿が見えていないので、どれもひとりでに起きているようにしか見えない。コップは宙に浮きあがって落ち、ドアノブは勝手に回って開いたように見える。食器の乱れ飛ぶ様はポルターガイストである。そこでは丁寧にも登場人物の視点からのカットも挿入される。コップが宙に浮いているのである。ここにおいて観客と登場人物たちの間の齟齬は最大化して露呈する。荒唐無稽な大胆さに驚く。
 なぜゴーストはこの一家に対してだけ極端なことをしなくてはならなかったのか。それは一家にいる少年の存在に依ると思う。彼は、まるでゴーストが電球を明滅させるように、おもちゃの電車や鉄砲の銃口を明滅させてみせる。彼は、ゴーストのことが見えているかのようにゴーストに向けて銃を光らせ、また背後に立つゴーストの方を振り返ってじっと見つめ返す。少年の特殊な振る舞いがゴーストをより極端な行動に走らせたのではないだろうか。ゴーストが生と死の中間的な存在ならば、少年は生とゴーストの中間的な存在とでも言えよう。事態はますます曖昧さを帯びてくる。
 
 そしてゴーストの行為で最も極端だったのは身投げである。ゴーストはビルの屋上から落下して過去に辿りつく。空間を垂直に通過することで、時間を垂直に移動する。
 その土地における人間の歴史が始まるとき、ひとつの睦まじい家族が開拓に来る。彼らは馬車に乗ってやってくる。その馬車は白い幌で覆われていた。隠すための白い布は始まりからこの土地ではためいていたのである。そして、少女が石の下にメモを隠した。母の腰でエプロンが揺れた。
 それから家族は全員、矢で射られて殺された。ゴーストはじっと彼らの死体を見つめていた。そこから時間はみるみる進み、再びケイシー・アフレックが死ぬ。ルーニー・マーラが柱の隙間に紙片を隠す。ケイシー・アフレックが再び死んだ今、ゴーストはなんだか非人称的な存在になっていく。もはや白い布の向こうにケイシー・アフレックがいるかはきわめて疑わしい。
 しかし、彼は相変わらず柱を引っかき続ける。そして、やっと彼女の隠した紙を取り出すことに成功する。彼は紙を開いて言葉を読むと満足して、この世から孤独に消えていった。彼にとってこの上なく幸せな結末だったろうと思う。
 だが紙片に何が書いてあったのかはスクリーンに映らなかった。ここで、見ることをめぐる観客の優位は棄却され、優劣は逆転してしまう。隠されてしまうのである。そのために、私は再び映画館に足を運ぶことになるのだろう。見えなかったもののために、隠されたもののために、見たいという欲望に従って、白いスクリーンのはためく歴史ある土地をさまようしかないのである。

 布を被った人間をゴーストと称してスクリーンに登場させるなんて荒唐無稽な試みは、映像の本当らしさを容易に失わせてしまう危険がある。であるから、この映画は白い布をめぐる奇跡的な均衡のもとに成立しているのであって、その均衡はルーニー・マーラの隠すしぐさの自然な切実さとケイシー・アフレックの柱を引っかく動作の悲しい率直さに依っている。つまりふたりの愛のためにこの映画はリアリティの微妙な均衡を保っていて、美しいのである。日常の曖昧で些細なものどもへの配慮と大胆な荒唐無稽さとの見事な同居に、自然と笑顔になって頬を拭った。
これから、壁にふわふわと漂う光を見たら、ゴーストが佇んでいそうな空間を凝視するに違いない。最後、ルーニー・マーラの視線の先には、作中何度となく現れた淡い光が揺れていた。
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