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ブレードランナー 2049のriyouのレビュー・感想・評価

ブレードランナー 2049(2017年製作の映画)
4.5
まず前作『ブレードランナー 』の評を貼っておく。




レプリカントを支配する液体の論理と人間を支配する固体の論理の奇妙な対立がこの映画を非凡なものにしているように僕は思う。何が奇妙かというと、従来、というより2017年の現在に至っても、レプリカント的なもの=人造人間と人間を較べたとき、人造人間が固体的な存在であり人間が液体的な存在として見られてきたし、事実そうであると信じられている。
人造人間は離散的(デジタル)な振る舞いをし、物理的にも硬いものであり、人間は連続的(アナログ)な振る舞いをし、物理的に柔らかいものである。人造人間の身体を引き裂くと硬い人造の内部構造が露出し、人間の身体を引き裂くとさまざまな体液が溢れ出しぬらぬらした内部構造が露わになる。
こう考えられてきたし、実際今まで作られた人造人間に準ずるロボットの類はそういうものだった。例えば、最新の映画における人造された人間像として『エクスマキナ』を思い起こすと、これも機械的で固体的な身体像を提示していた。
しかしブレードランナーにおいて、この関係は逆転している。デッカードの弾丸に射抜かれたゾーラの身体からは鮮やかな赤い血液が溢れ透明なジャケットを濡らし、同様にブラスターの餌食となったプリスの腹部からはぬらぬらした赤黒い内臓がこぼれ血液が流れ出る。これらは一般的なヒトの壊れ方である。対してデッカード(彼は本作において少なくともレプリカントたちと闘争する間は人間の側に立場している)はロイ・バッティとの死闘のさなか、バキッと手の指を折られる。血は流れない。あるいはプリスはデッカードの首を捻じ曲げようとする。これらは人造人間やロボットの壊れ方、壊し方である。

スクリーンに映される液体は様々あるが、特に映画にとって長く多く効果的に現れてきた液体として雨、涙、血は特筆に値すると思う。そもそも『ブレードランナー』は常に雨が降っているという点だけとっても液体に満たされた映画であると言える。そしてそうした液体は特にレプリカントたちの身体を濡らしている。それは先にあげたようにプリスの腹部から出る血液であり、またレイチェルの頰を伝う涙であり、デッカードのようにスピナーに乗ることが出来ず家も持たない彼らの身体を執拗に濡らす雨である。
ロイ・バッティがデッカードに最後の独白をするシーン。彼の顔は、血にまみれ雨に濡れ、確認はできないが流れているだろう涙に濡れている。最も儚く美しいこのシーンに、レプリカントを支配する液体性が集約されている。

フォークトカンプフ検査では眼を見ることでレプリカントと人間を見分ける。なぜ眼なのか。
ヒトの眼の"黒眼"の部分を覆う角膜には血管が届いていない。そのため角膜の細胞は個別に自ら酸素を取り込み活動している。黒眼のところに血液は届かず、つまり液体の論理は届かない。だから、瞳にレプリカントである証拠がわずかにこぼれ出てしまう。角膜はあくまで個的に固的に活動しているのである。レプリカントは液体の論理に従っていて固体の論理は自由に操れないのだ。これはやはり驚くべき転回ではないかと思う。我々は通常、人間は人造人間より流動的で不定形で曖昧だからこそ、ある面で優り続けていると考えている。しかし『ブレードランナー 』はそうではないと言っている。人間の人間性はむしろ個的で固的なところにあるのだ。末端の繊細な部位がそこだけで個別に自由に活動していること、バキッと簡単に折られてしまう骨格を持っていることにある優位が存在しているのだ。

やまない雨に打たれ続け、血を流し涙を流し、でありながら瞳に血液は決して達せず、しかしその瞳に私たち人間が想像もできないような景色をたくさん映してきた、宇宙の孤児レプリカントたち。ロイ・バッティは言う。「そんな思い出もやがて消え去る……雨の中の涙のように……」
同じことは人間にもそっくりそのまま言えるだろう。私はあなたが想像もつかないようなものを見てきたし、あなたは私が想像もつかないようなものを見てきた。それは等しく消えていくけれど、だからこそ短い生命を尊重し、できるだけ記憶を長く残し続けたい。他人の都合で絶たれるべきではない。
私たちは誰もが孤児であり、家がないため雨に打たれている。涙はたいてい雨に流される。








以下ネタバレ注意

上の『ブレードランナー 』評は今作にもある程度通ずるんじゃないかと思う。マダムはデッカードと相似形に拳をバキバキと握り潰され、試作レプリカントの下腹部に開いた裂孔からは驚くほどサラサラと液体然とした血液が流れ出る。
相変わらず雨が人々を等しく濡らしていて、ウォレス社の印象的で無機質な部屋の数々の壁には水の影が揺らめき、ウォレスの居室は四方を水に囲まれている。今作では海さえ登場し、画面を液体で充そうとしている。そういう意味ではまさしく液体の映画であり、『ブレードランナー 』である。しかし同じ映画ではないのだから、スクリーンに『ブレードランナー 』を見出そうとすると当然違和感がでてくる。では違和感はどこからくるのだろうか。
その疑問に対してふたつのシーンをあげて考えたい。まずジョイとKが初めて外に出て雨に打たれるシーン。バーチャル彼女ジョイは実体のない3D影像であるが、降雨の環境に適応して一雫一雫を計算し、見事に雨を肌で受け止め濡れてみせる。そのとき私は、彼女が雨の側(すなわち物理的実体)に近づいたという感覚より、雨が彼女の側(つまりバーチャル映像)に近づいたという感覚を抱いた。
もうひとつはクライマックス、Kとラヴの戦闘シーン。シリーズ通して最もスクリーンが液体に浸されるシーンである。荒れる高波に曝されながら、Kの頭は水面の下にあってラヴの頭は水面の上にあって、互いの息の根を止めようともがいている。ここで私はハッとさせられた。実生活において水中と空気中どちらにいるときが苦しいかというとそれは間違いなく水中である。ただいるだけで苦しい。あらゆる映画内においてもそれは同様で、魚類か何かでない限り、空気中より水中の方が苦しいように映されてきた。しかし、このシーンで、水面より上に顔を出しているラヴが苦しそうな表情をしていて、水面より下にいるKは涼しげな表情でいるのである。
以上の奇妙な逆転に直面して、本作における液体の希薄さに気付き驚いた。ジョイのバーチャルな身体に受け止められ、Kの息を止めることのできない、液体の希薄さである。
前作の、雨に溺れるような、雑然とした都市に窒息するような感覚。それを与える空気の粘り気、液体の濃密さが息を潜め、本作は周到な雑然さと軽い雨に支配されている。ロイ・バッティの涙を容赦なく流し去った雨の強かさは薄れている。
そうした希薄さにより画面全体がのっぺりと一体化して溶け合っていて、その結果として映像の寂しさが増し、孤児たちの孤児たる様子をより悲しく映し出すことに成功している。薄く引き延ばされた背景の中にポツンとKがひとり佇む絵は孤児の孤独を直接的に表現している。しかしそれに加えてずばり孤児院まで登場させてしまう靦然たる様には少し驚いた。前作からずっと血縁地縁に類するものは映されず、無数の孤児たちが密集する場所としてこの近未来トーキョー的都市は描かれてきた。だが孤児院が出てきたことで逆説的に今まで忘れていた縁の存在感が増し、私たちの世界との地続き感が強まった。人間たちの縁が見えてきて、それとの対比でますますレプリカントたちの孤児性が印象深く浮かび上がり、"奇跡"の重大さと神聖さがいっそう強く感じられた。

アナ・ステリン博士の暮らす建物の周囲に降っているのは、液体と固体の中間項としての雪であり、それが彼女の存在の中間性を証し立てている。彼女は紛れもなく"奇跡"なのである。

スクリーンに積極的に液体を登場させるのだがその液体は希薄なもので、希薄さが画面を平坦にし、それゆえレプリカントの孤児性が際立ってきて、決して描かれざる"奇跡"が突出して感じられてくる。
前作にあった魅力が失われたと言うこともできるが、単に失われたのではなく、別の描きたいものを効果的に描くために意図的に失わせたまでであろう。同じものが観たいなら同じ映画を観ればいいのであり、私は今作は今作でとても満足している。
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