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スパイの妻のriyouのレビュー・感想・評価

スパイの妻(2020年製作の映画)
4.2
ネタバレがあります。




 誰かが通訳している姿を見るとき、ハラハラする気持ちがある。何かとんでもないニュアンスの伝え間違いをしてしまうんじゃないか、急に片方が怒り出すんじゃないかといった恐れや、必ず生じてしまう微かな温度差への不安が私を襲う。翻訳に宿命づけられた齟齬が顕在化し、会話が破綻してしまう可能性に、居心地が悪くなってしまう。しかし外国語を堪能に話せない者にとっては、そこにいる通訳者を信頼する他ないのである。
 「スパイの妻」は、初めのショットにおいて通訳を介した会話から始まる。そこでは外国人商人ドラモンドがスパイの容疑をかけられて日本当局によって連行されようとしている。憲兵たちの軍靴の音が鳴り響く。その外国人と役人の間には、竹下文雄という青年が通訳に入る。彼は高橋一生演じる優作の甥にあたる。そこで為されるのは簡単な会話だが、通訳をめぐる不安は少なからず私を捉え、そして同時に世間、国家が今まさに戦争に向けて変容しようとしている不安感が漂ってくる。ふたつの不安が纏わりつく画面には、一組のドラム缶と一組の自転車が意味ありげに配されている。黒沢監督らしい不穏さに不安になりながら、その事実に少し安心する。
 場面は変わって、優作の元に、ドラモンドの逮捕を告げるため、東出昌大演じる津森泰治が訪ねてくる。泰治は憲兵部隊の隊長に就任し、貿易会社を営む優作とは立場上対立することになる。外国との関わり方に関して小さいながら衝突が見られる。このふたりと蒼井優演じる聡子の三人は旧知の仲らしいのだが、その関係も変容しつつあることを感じさせられる。微かな不安が漂う。
 冒頭の数カットの間で、登場人物ひとりひとりが社会や友人に対して、戸惑いながらどこか他人のように接するぎこちなさが映し出されている。それは観客が映画の登場人物に初めて出会うときのぎこちなさとは関係ないはずだが、似た感触を持っている。

 この映画は、いくつもの変容をめぐる映画である。変容を生成変化と言い換えてもよいだろう。生成変化とは、ある"私"が違う"私"になることであり、それに立ち会った者にとっては、よく見知っているはずのものと新たに"他者"として出会いなおすことである。
 そして、ここまで記してきてわかるように、変容の予感は不安を連れて私たちの胸に去来する。

 ある日、聡子は泰治に呼び出されて、満州旅行から帰った優作が犯罪に関わっている可能性があると告げられる。優作が満州から連れ帰った草壁弘子という女が死んだのだという。聡子の幸せな世界は急に不穏さを漂わせ始め、不安が襲う。その女は優作とどんな関係にあるのか、優作はその死に関わったのか、一緒に満州に行った文雄も関係しているのか。
 その取り調べの最中、聡子を映していたカメラが泰治の方へ不意に切り替わる。すると泰治の背後に直立してこちらをじっと見つめるふたりの憲兵が映される。直立不動のふたりは、この世ではない場所をじっと見つめるような目をしている。冒頭の二組のドラム缶と自転車に微かに呼応する。不気味で美しいショットである。観客はそのショットを通して聡子の不安を感じとるだろう。
 その日の夕食の席で、聡子は優作に事実を問う。
「本当のことをおっしゃってください。こんな気持ちは結婚して以来初めてです」
 聡子の不自由なく愛に満ちていたはずの生活に疑念が差し挟まれる。夫婦の愛すら疑わしいものに見える。優作は答える。
「僕はスパイじゃない。僕という人間を知っているだろう。信じるのか、信じないのか」
 ここでスパイの語が口にされ、"信頼"が問題になる。夫婦の間の愛が、疑いうるものとして、改めて浮かび上がってくる。愛は、生成変化の不安と信頼の狭間で取り沙汰されることになる。
 聡子は振り絞るように答える。
「信じます……」

 そして生成変化は不安にとどまらず現実のものとなる。あるいは既になっている。聡子自身と聡子の周囲で、それぞれのきっかけにおいて変容が起きる。

 聡子が有馬の旅館にこもって小説を書いているという文雄を訪ねると、以前までの優しげだった彼はすっかり変貌して眼光鋭く、聡子に冷たかった。旅館の前には文雄を監視する政府の人間が何人もうろついていて不穏な空気が漂っている。上着だっただろうか、聡子は手に持った布を傍に置き、草壁弘子の件について尋ねた。
 それに対して文雄は、
「あなたは何もわかってない!あなたは何も見なかった。あなたにはわかりようがないんだ!」
と声を荒げて、寝具を振り回し羽毛を撒き散らした。大量の白い羽毛が舞い上がって畳の上に落ちる。そうかと思うと不意に一転して、聡子にある封筒を託す。封筒を優作に届けるように依頼する。目まぐるしく文雄の現れは変容する。舞い散る羽毛の思いがけない重さと手渡される封筒の思いがけない軽さが私たちを惑わせ魅了する。
 封筒の中身は、満州における関東軍の人体実験に関するノート。その原本とその英訳である。国際政治の場で告発するために英訳をしていた。文雄は満州で細菌兵器による死体の山を目撃し、まったく違う彼へと生成変化したのである。

 その後文雄は逮捕されて、過酷な拷問を受ける。それから優作も泰治に呼び出されて、尋問される。そこで優作は手にマフラーを握って椅子に腰掛けている。泰治は、拷問で剥がした文雄の爪を見せて優作を脅す。泰治のありようが明らかに変容していっているのを目の当たりにする。

 ここで共通しているのは、生成変化した誰かの姿を目の当たりにするとき、その人物の手に何らかの布が握られていることである。
 聡子の密告によって文雄が拷問されたことを知った優作は、荒々しくマフラーを外して手に抱えながら玄関をくぐる。部屋に帰ると、そこにはあるきっかけを経てすっかり変容した聡子の姿があった。彼女はもう夫の後を歩くだけの人ではなくなっており、自分の意志で行動し始めていた。
 映画の初めの方でも、スパイ容疑の晴れたドラモンドから贈られた布を、聡子が抱えていた。聡子は布を棚に置きながら、
「この布を和服にしましょう」
と言うが、それに優作は、
「いや、洋服にしよう」
と答える。齟齬とともに優作の変容の気配が微かに漂うのを感じる。
 なぜ彼らは律儀に布を手に持ち、そしてなぜそのことを私が指摘するのか。それはまさに布をめぐる聡子と優作の会話に表れているように思う。布は和服にも洋服にもなり得る(た)ものであり、生成変化の可能性である。物語を通して予感される登場人物たちの生成変化を、布がちらりちらりとスクリーンに光ることで、すぐ傍から照らしていた。初めにふたりのこの会話があるからこそ、後にそれがマフラーだったり上着だったりしても、生成変化の可能性としての布が映画の物語的な流れを横切るように見える。
 聡子の黄色いワンピースや優作の三つ揃いの白いスーツ、女中の駒子のショールカラーの緑のシャツ、文雄のオープンカラーシャツ、聡子や草壁弘子の着物。彼らの身にまとう布はことごとくおしゃれで格好いい。おそらく大正から昭和初期というのは、和服と洋服が同じくらいの地位を占めているという意味で、日本人の衣生活が最も豊かだった時期のひとつだろう。彼女たちの服装を見ているだけでも幸福になれる。泰治や優作が問題にしているように、この戦争はまさに洋服と和服の争いでもあったのであり、今では洋服しかほとんど着られていない。そして、どこか滑稽なのは、当の泰治が着ている軍服は洋服に違いなく、つまりは軍や警察、国家といったものたちが西洋からもらい受けたものに他ならないことを表しているのである。しかし泰治の制服の深いブルーがかったカーキ色はとても綺麗で、東出昌大の佇まいの底知れなさを見事に演出していた。洋服を着ても和服を着ても変わらぬ美しさをたたえる蒼井優はまさに”スパイの妻”にふさわしいと言えるだろう。


 聡子は、二度変容した。それらはふたつのフィルムを契機として起こった。
 一度目は、優作が満州で撮影した、関東軍による人体実験の証拠となるフィルムをこっそり見たときである。彼女はそれを見るまで優作と文雄の行動に疑問を持っていた。人体実験が事実だとしても、それを国際政治の場で発表することは反日本的な行為であり、同胞の不利益になると考えていた。しかし、映像を見た聡子は一転して優作の意志を理解し、自ら行動し始める。文雄を信頼して当局に告発し、ノートの原本をあえて泰治に渡す。そうすることで優作の嫌疑を晴らし、計画を確実にしようとした。優作とともにアメリカへ渡る計画をし、聡子はフィルム、優作はノートを持ってそれぞれ別の船に乗ることを決める。聡子は優作の力になれることに喜びを感じる。
 二度目は、聡子のアメリカ渡航が何者かの密告によって破算し、持っていたフィルムを泰治によって映写されたときである。聡子はそのフィルムを人体実験の証拠のつもりで持っていたが、大勢の憲兵の前でスクリーンに映されたのは聡子と優作と文雄が趣味で撮った短編映画であった。女優のようにノリノリで演技をする聡子自身が映っていた。大真面目に国家への反逆を待ち構えていた憲兵たちはざわつく。私にはそれが可笑しくて悲しくて、美しくて涙が出た。この映画には人が生成変化する瞬間が映っている。それも映画を契機にしてである。それだけで素晴らしい映画だと感じる。聡子の自我は崩れ、決定的な変容に見舞われる。彼女はどうやら優作に"騙さ"れて、置いて行かれてしまった。彼女は笑いながら「お見事!」と叫ぶ。そしてその場で卒倒して、精神病院に入れられてしまう。

 生成変化には契機がある。ひとりでには変化しない。何かを感じることで変化する。たとえば目で見ること。フィルムもその契機になり得る。まさにそのときスクリーンに向かっていた私は、その契機を逃し続けていることに気付く。聡子のようなフィルム体験をできず、何度も映画を観ている。しかしその予感はずっとある。幸福なことに。もしくは不幸なことに。
 生成変化の予感には不安と期待が同時に向けられる。映画を観るときにはいつもその気持ちがする。どちらに転ぶかわからない。トラウマになるようなひっくり返るような映像を見ることになるかもしれない。不安と期待の狭間で、何があっても目だけは閉じまいと身体を固くする"信頼"の行為が映画鑑賞だと思う。

 ところで、この映画では随所に演劇的なショットや演技が見られる。初めに優作と泰治が机の周りをグルグル歩きながら会話するシーンは、どこか大袈裟で劇的すぎる台詞回しと身のこなしになっている。
聡子が山でたまたま泰治と遭遇して会話をした際、聡子は泰治があらかじめ収まっている固定された画面の中に自ら移動してきて台詞を言う。まるで、見えない舞台が設定されていて、それに従って演技しているように見える。
 優作と草壁弘子の仲を疑う聡子が、夢の中で優作を陰から見ていて気づかれたときのリアクションなども大袈裟でコミカルで劇的すぎる。室内の調度品や服装のわざとらしさも含めて、どこか映画というより劇のようである。
 固定された舞台の束縛に抗うように大きく動きまわって発声し、舞台にどうにか別の生活空間を現出させようという切実さが現れたセットや衣装を拵える。そういったところに演劇的な雰囲気を感じる。映画が本来目指している自然さから離れる瞬間がこの映画にはある。
 その演劇のような手触りが、映画内の映画に迂遠して近寄らせ、聡子のフィルム体験を特権化するのを助けていると思う。

 しかしながら、裏切られたように見える聡子と優作の間に愛はなかったのだろうか。愛はちゃんとあっただろう。愛とは、生成変化の不安に対抗する力能ではなく、来たりし生成変化を受け入れてそれと共に生きるという決断のことである。その過程で不安に負けず信じてみる。信頼して、でも不安で、けれどもやっぱり信じて行動してみて、それでお互いがまだ見ぬ自分に出会う。そのできごと全部が愛と呼ばれてよいのではないか。
 夕食の席で優作に「信じるのか」と問われて、聡子は「信じます」と声を振り絞った。文雄は聡子を信じて封筒を渡した。聡子は、文雄が拷問をされても優作について吐かないと信じて密告した。聡子は優作を信じてアメリカ行きの船にひとりで乗った。
 彼女たちは、信じて変容に立ち向かった。聡子は変容の不安と信頼の狭間でもがき、変容をも愛した。彼女の「お見事!」の叫びは愛の叫びだった。

 変容の決定的な瞬間には誰もが受動的な存在となる。ただ茫然と見たり聞いたり触ったり嗅いだり味わったり、感じるしかない。物と同様に。フィルムは人間が手を加えることで変化する。フィルムは光を感じて光景を記録する。そして、それを見て人間が変化する。お互いにとって不可逆でのっぴきならない相互交通的な関係が存在する。
 生成変化の持つ受動性が「“スパイ”の“妻”」というタイトルのふわりとした受動性なのであり、同時に“スパイの妻”という新しい“私”の能動的な決意でもある。

 “愛する”という言葉の意味は人と人、人と物の緊張関係の中に存在しているのであり、私たちの愛は絶え間ない不安の波に信頼のしぶきを返し、聡子はひとつの戦いから解放されて波打ち際を歩いた。
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