blacknessfall

パルプ・フィクションのblacknessfallのレビュー・感想・評価

パルプ・フィクション(1994年製作の映画)
3.5
吹き替えで初めて観た。

時代を象徴し過ぎた映画は時が経つにつれ多かれ少なかれ恥ずかしい感じになる。どんな名作も例外ではない。
このどうでもいい会話が延々続き、それを洒脱に撮って小粋に見せる演出。時間軸の交差。これぞ90年代だ。斬新でセンセーショナルだった。
タランティーノは時代を象徴になった。
それとレトロフューチャーなおしゃれ感も。
でも、正直、当時から苦手だった。時が経って苦手と思う部分が熟成しその苦みとキツさがパワーアップしたように感じた笑

何がキツイのかと言うと映画に対してはあまりに真摯で映画であることに自覚的でそこかしこに「かっこいいヤツです。わかるだろ」😏?ってタランティーノの自慢とオタクの自負みたいのが見えすぎるとこ。
映画愛があって知識も深く、それを緻密な構成に溶け込ませ洒脱な演出で仕上げた他に類を見ない傑作だと思う。けど、タランティーノの「かっこいい」がおれにはダサく感じてしまう。タランティーノの好きな昔のノワールやアクションに登場した人物達をタランティーノ風にマッシュアップ、デフォルメしたセリフや佇まいの影にイキりオタクがドヤッてるのが見えてしまう、、うまく言えないけどおれにはそれが非常にキツい笑 そうじゃない人が無理に不良ぶってるのを見た時の何とも言えない痛々しさに似た思いが込み上げる笑

あと、これはタランティーノのせいじゃないけど、これだけ一世風靡したわけだからフォロワー的な映画がいっぱい作られた。軽くノワールやクライム映画ブームになったよね。それが悉くハズイのばかりだった。特に『ドーベルマン』と『キリング・ゾーイ』がキツかった。でも、二作品とも当時はそれなりに高評価で。ハッキリ言ってこの2作をかっこいいと感じた人はちょっとタランティーノ及び90年代にヤられ過ぎだと思う笑
『キリング・ゾーイ』はロジャー・エイヴァリーが監督だからタランティーノと脚本書いた人ってことで無意識に嵩上げしてると思うな。キリング・ゾーイ観ると、やっぱり『パルプフィクション』はタランティーノのだけのクレジットでよかった気がする。エイヴァリーにパルプフィクション作れるだけの構成力があったとは思えないね😏

本作を機に再ブレークしたトラボルタだけど、そんなにかっこいいかな?あういう角張ったゴリラ顔🦍にあのヘア・スタイルは変だと思うんだけど。自分も現在、中途半端な長髪のおっさんでありながら言うのはアレなんだけど、あの長さはないな。しかも後ろちょこんと縛るヤツいるじゃん、最悪だと思うんだよ。保守的な人に白眼視されるほど尖りたくないけど普通のおっさんとは思われたくないてちょいワルおやじ的なうざキモいメンタリティーの象徴なんだよ、あれは😩
トラボルタの役名がヴィンセント・ベガなんだけど、これ、大好きなニューヨーク・パンクの異端視、元祖エレクトロニクス・パンクバンド、suicideのボーカル、アラン・ベガと間違うんだよ。「ヴィンセント・ヴェガの退廃的で自己破壊的陶酔性のあるボーカルは紛れもなくパンクで~」とか、偉そうにイキって言い間違えて恥ずかしいめに遭ってんだよ、そういう意味でも本作は好きなれねぇんだよー。

それと脚本をズタズタにされ台無しにされたとタランティーノが方々でディスったおかげでタランティーノ信奉者から超駄作扱いされてる『ナチュラル・ボーン・キラーズ』だけど、確かにオリバー・ストーンがお得意の反権力汁を増々にしてメッセージ性の強い映画になったけど基本はそんなに変えてないし、何より駄作じゃねーよ。『ジャンゴ』や『イングロリアス・バスターズ』でも明らかなようにかっこいい映画のためにメッセージを利用するタランティーノとメッセージのために映画を利用するオリバー・ストーンとの作家性の違いでしかない。確かにタランティーノが撮ったらオフビートでポップで見やすい映画に仕上がったろうが、そんなシネフィル、サブカル好みの映画だったら、おれはウディ・ハレルソンのコスプレするほどハマらなかったと断言できる。好き過ぎてデートにまで毎度ウディのコスプレしていってそれが原因で当時の彼女にふれてんだぞ(詳細はナチュラル・ボーン・キラーズのレビューを読め)😫
あれはオリバー・ストーンが、メディアも大衆も殺人鬼ほどの誠実さもない偽善者だ、というメッセージを爆発させたからこそ唯一無二のカルト映画になったんだ。それぐらいの魔力のある傑作なんだ😬💨
blacknessfall

blacknessfall