ゆず

アメリカン・サイコのゆずのレビュー・感想・評価

アメリカン・サイコ(2000年製作の映画)
5.0
80年代ウォール街の一流企業に勤めるエリートビジネスマンの虚飾にまみれた日常、心の渇きから猟奇的行為に及んでいく非日常を描いた風刺映画。クリスチャン・ベイルがサイコパスなエリートを怪演。イヤな男を見事に演じている。

アメリカ映画でよく見る、「会社の一角に自分のオフィスを構え、秘書がいて、本人は電話でランチの約束を取り付けているけど、一体なんの仕事をしているのか分からない」というやつが本作でも(笑)このお約束の演出はエリートの仕事を描写しても退屈だからなのか、エリートの仕事を誰もよく知らないのか、それとも本当にエリートは何もしてないのか…。
とにかく、主人公の実務を省いたことで彼らエリートの関心事が仕事以外にあることを本作は伝えている。
その関心事とはスーツのブランドだとか名刺のデザインだとか高級レストランの予約が取れただとか。およそ能力とは別のところで彼らは競い合い一喜一憂している。自らを虚栄で飾ることが彼らのアイデンティティになってしまっている。
そんな滑稽な姿を描くことで、本作は、高給取りだが中身のない空っぽなエリート像を風刺しているのではないだろうか。

主人公ベイトマンの夜の顔は、血にまみれた猟奇者だ。
しかし唯一他人とは違う夜の顔でさえも、何かの真似事にすぎないようだ。アダルトビデオを見れば娼婦たちとアブノーマルなセックスをするし、ホラー映画を見ればチェーンソーを振り回す。彼の猟奇的行動は何かの影響を受けていて、独創性に欠けている。
狂人としてもベイトマンは空っぽなのだ。

ラストではベイトマンという存在が突然揺らぎ、鑑賞者に問いかけてくる。「主人公は何者なのか?」
主人公は何者でもない、という可能性が出てくると逆説的に「誰でもある」と言えると思う。つまり、鑑賞者自身やこの社会に生きる人々だ。
ウォール街のエリートだけがサイコパスで空虚なわけではない。現代社会に暮らす私たちもベイトマンと同じように空っぽな人間なのだ。
そんな含みを持たせたこの映画が風刺するのは、現代人すべてなのかもしれない。
ゆず

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