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インディアン・ランナーのninjiroのレビュー・感想・評価

インディアン・ランナー(1991年製作の映画)
3.9
ここもかつては広く、深い森だった。
密に生い茂った木々と草の中に大小よろずの生命は宿り、各々目に見えぬ領域を作り、語ることなく主張し合い命を循環させ続けた。その営みから離れて集落を作った人々はいつしか森を畏れ、容易に立ち入ることも絶えてなかった。
ただ部族間の使者、「インディアン・ランナー」を除いては。
長からの言葉を授かった使者は平原を、荒野を、密林を休みなく自在に駆け抜け、どんな猛獣の鋭い爪も牙も及ぶことなく、彼らのその魂は時間と空間から解き放たれ、「メッセージ」そのものとなった。


1968年ネブラスカ州。
生まれた故郷に土地を拓き農業で暮らしてゆく夢を抱きながらも止む無く挫折し、妻と幼い子を養う為、父親と同じ警官として生計を立てる兄・ジョー、その実直な性格から周囲の信頼も厚く、老いた両親からも頼られていた。
そんな折、ベトナムに出征していた弟フランクが復員し、ジョーを訪ねてやってくる。
幼い頃から気性が荒く、放蕩を重ねて周囲に疎まれてきたフランクだったがジョーにとっては大切な弟、二人は再会を喜び、連れ立って故郷の両親の元に向かおうとする途上、不意に貨物列車に飛び乗り再び去ってしまうフランク。
長く行方をくらました後に再会した彼は犯罪に手を染め、暴力と酒に塗れた荒んだ生活を送っていた。

人は誰しもゆっくりと変わってゆく。
生き難い世の中と折り合いをつけるため、愛するもののため、養うべき家族のため、或いは単に損得のため。責任やら見得やら世間体やら、様々な思惑を巡らせながら、理想を描いたかつての自分に言い訳を繰り返してゆっくりとその生き方の舵を切っていく。かつて抱いた夢と情熱を心の奥深くに仕舞い込んだまま日々の暮らしの為にひたすらに生きるジョーも同様、しかしそれは決してやましい裏切りではない。自らが生きる為、他者を生かす為、自らに与えられた少ない選択肢の内より現実的な道を選んで進むことは必然であり、また一つの正義である。
しかし、中には如何に変わりたい、生き方を変えたいと切望しても、それが叶わない人間もいる。
正体不明の焦り、遣り場の無い苛立ち。フランクの人生は常に何かに追われるように不安定で、彼自身の思うままにはならない。
幼少期からのコンプレックスに苛まれ、与えられて然るべき愛情に飢え、心に空いた穴から目を背け、よろける様にして分け入った戦場では只生きるために恐怖から逃げる。
思えば常に逃げ続けた彼の脳裏に蘇りその拠り所となったのは幼い頃に父から聞かされた「インディアン・ランナー」の伝説。彼も又、ただ一人生きる為に選択を行い、その魂を「メッセージ」として解放する。
それは「自由な生き方」などという耳触りの良いものではない。自己にも他者にも膨大な犠牲を強い、常に葛藤を余儀なくされ、決して立ち戻ることの出来ない地獄である。
踏み出そうと運ぶ一歩一歩を悉く踏み違え、遣り場の無い怒りに苛まれ、激しく後悔する時がある。
愛する者から向けられる愛に素直に向き合えず、乱暴にその愛を掴んで引き千切り、憎しみに変えて投げつけてしまいたい衝動に駆られる時がある。
何故、と問われても答えは無い。ただ一口に語ることの出来ない焦燥感だけがその心を支配し、何時までも変わらぬ場所で呆然と立ち竦むことしか出来ない。


こうした一様には理解し難い複雑な心情を何となく形にして示し尚且つある程度成功し得たのは、監督・脚本を務めたショーン・ペン自身のバックグラウンドに拠る処が大きいのかも知れない。
手堅い演出の中に思い出したように挟まれるシュールな絵は忘れ難く、尚深刻に広範に拡がる誰かの心の傷を俯瞰で覗き込むような冷たい恐ろしさを孕んでいる。

フランクの兄ジョーにデヴィッド・モース、フランクの奇矯な恋人にパトリシア・アークエット、父親にチャールズ・ブロンソン、端役ではあるが強烈な印象を残すデニス・ホッパーに未だ無名のベニチオ・デル・トロ、それぞれ置かれた役回りを個性豊かに演じて総じて素晴らしいが、やはり特にフランク役のヴィゴ・モーテンセンの存在感は素晴らしい。
30代になったばかりの若々しいヴィゴの狂気を孕んだ怪しげな目の力と全身から匂い立つような色気は他に得難いものであり、それをベースとして凛とした帰還兵姿のヴィゴ、出鱈目な刺青で全身を埋め尽くしたチンピラヴィゴ、心を入れ替えてガテン系の仕事に精を出すがやっぱり咥え煙草のヴィゴ、はしゃいで海パン姿で浜辺を全力で駆けるヴィゴ等、正直ファンとしてはヴィゴっちゃってしょうがないシーンで満載である。
また、その後の彼の役者人生を運命付けるかのような出し惜しみ無くヴィゴのヴィゴを放り出してのズブズブの酩酊シーンは、「バッド・ルーテナント/刑事とドラッグとキリスト」に於けるハーヴェイ・カイテルのこちらも全裸での泣き笑い酩酊シーンに匹敵する切迫感と必然性を兼ね備えた必見のシーンである。
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