YasujiOshiba

サンタ・サングレ/聖なる血のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

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日本版BD。E君から。これは自分で持っておきたくなった。どうするかな...

制作はダリオ・アルジェントの弟クラウディオ・アルジェント(Claudio Argento 1943-)。脚本はロベルト・レオーニ。YouTube で彼のインタビューを見つけたが興味深い。

https://www.youtube.com/watch?v=UK3RwKSUcRU

これを聞くと、映画ができたのはクラウディオ・アルジェントが脚本を信じてくれたから。レオーニによれば「狂ったプロデューサー un produttore "pazzo"」なのだけど、「狂った」(pazzo)はカッコつきで、褒め言葉。

アルジェント弟が信じてくれた脚本というのは、その起源をレオーネの大学時代に遡るという。そのころ心理学の論文を準備していた彼は、労働療法や遊び療法などをしている精神病棟に通うことになる。ここで知り合ったある患者は、非常に知的で三カ国語を話し、図書館で彼のリサーチを手伝ってくれていたそうだ。

あるとき、その患者が、「黙れ、黙れ」と口走る。どうしたのかといえば、「声がしたんだ、その男を殺せってね。でも心配はいらないよ。ぼくは君のことを大切に思ってるから」。レオーニはぞっとしたという。けれど、透き通った青い目で、「君のことを大切に思っている io ti voglio bene」という患者の言葉を、信じたのだという。

そのときに生まれたのが、ある種の博愛の感覚、兄弟愛の感覚であり、そこの時に巻かれた種が育って、『サンタサングレ』の元となる脚本が生まれたという。それは、シリアルキラーが次々と人を殺してゆくのだが、痛々しく思うのは殺された人ではなく、シリアルキラーのほうであるような物語だった。

つまり、シリアルキラーは野蛮で暴力的な怪物(mostro)だという概念を異議を申し立て、怪物(mostro)のラテン語の語源「monstrum」にまで遡り、つまり「見るべき何ものか una cosa da vedere」「発見すべき興味深い何ものか una cosa curiosa da scoprire」だという語源の意味を汲み上げるような物語。

この物語をクラウディオ・アルジェントに話したところ、大いに乗り気になり、ふたりで物語を仕上げると、アレハンドロ・ホドロフスキーのところに持ってゆくことにしたのだという。

パリにいたホドロフスキーは、脚本家とだけ合うという。そこでレオーニがパリを訪ねると、「これを書いたのはいつだ」と聞かれる。あの夜だったかなと答えると、ホドロフスキーが言う。「やっぱり。その夜わたしはパリで早く床についた。だから物語の天使は、わたしのもとを通り過ぎて、ローマのお前のところに物語を運んだのだ。だからお前は、泥棒だ。それはわたしの物語だからな」。

なるほど、よく書けた文章に共感する時、人は自分のアイデアが盗まれたように感じるわけだ。実際、ホドロフスキーもまた、レオーニと同じような体験をしていたらしい。かつてシリアルキラーだったという男と会話したことがあると、別のインタビューで語っている。だからこそ盗まれたと感じたわけだ。いずれにせよ、こうして、シリアルキラーを人間として共感できる存在に描くという挑戦が始まったわけだ。

そういえば、ジョナサン・デミの『羊たちの沈黙』は1991年。あのハンニバル・レクターはまさに「monstrum」(興味深く見るべき存在)として、その後シリーズ化される。直接の影響関係はわからないけれど、なにか時代の雰囲気があったのかもしれない。1980年代という時代、レーガン大統領の時代...

もちろん、シリアルキラーを描く文学や映画にはほかにも先例がある。カポーティの小説『冷血』(1965)やディヴィス・グラッブの『狩人の夜』(1953)。両方とも映画になっているけれど、ぼくが見たのはチャールズ・ロートンが監督した1955年にミッチャム主演で映画化したもの。

いはやは、人は怖い。だからこそ、どんな人でも「monstrum」な部分を持つということなのだろう。

雑感:
- 文化的抹殺。アメリカ嫌い。それに対する土着性。チャンプルー、ジャズ、ファンク、ようするにコンタミナツィオーネ。

- マイムの手。束縛された手。自由になった点。鳥になる手。警官に包囲されて手を上げるときの、逆説的な幸福。

- ホドロフスキーの息子たち。フェニックスは子供時代も大きくなってからも、どちらも同じ血が流れているのがよくわかる。ハッとしたのは、ポンびきの彼も息子だったという言葉。筋肉隆々で愛嬌があって、本気で怖い目をする彼は、じつに本物ギャングで事故死したという。
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