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気まぐれ天使のニューランドのレビュー・感想・評価

気まぐれ天使(1947年製作の映画)
3.7
☑️『気まぐれ天使』及び『女性No.1』▶️▶️
映画における、古典、古典的ということを考える事がある。古典主義という言葉の正確な定義をよく知らないが、実際には完全に計算されたセット撮影でも、風俗の記録·活写を基本的な建前としている映画で、簡潔な描写というのは逆に不純やトンガリを感じたりもする。絞り込めない曖昧な物が写り込むのが当たり前·そうあらんとしているのが映像·映画の気がするからだ。映画の最大·或いは共通テイスト·魅惑は、風俗に向かう·高邁判断を控えたフラットな視線ではあるまいか。ブレッソン·小津·ホークス等の作を映画史家は古典と呼ぶのだろうが、甘い一般ファンはそう呼ぶ近しさを彼らに感じない。特異な作家的アプローチを感じて、映画の基本·求めたい形という感じがしない。どこかファジーで、集団芸術たるをもって圧倒的な作家·リーダーの存在など感じさせない、というのが私が思ってる映画の古典として抱くイメージだ。
その分でいうと、今年初めに観た1940年代の2本等、その名に相応しい。尊大·高邁なもの等ではない、雑多だが親しみやすい広い間口の映画ならではの他にはない手応え·感動がある。H·コスタも確かに名監督で、テレビでしか観たことはないが、『オーケストラの少女』とか、部分しか観てないシネスコ第一作の『聖衣』、そして忘れてはいけない文句ない名作『ハーヴェイ』等浮かぶが、作家スタイルはトンと浮かんでこない。本作もクリスマスに天使到来、人々に本来の姿に気づかせるという有りがちな話に、爪を隠した鷹的·伝説の撮影監督トーランドがその天才や土台がつい見え隠れするスケールが曰く言い難い感銘を引出してくる、ごった煮芸術の映画の醍醐味をいつ知れず引き入れてる作となっている。街角·人混み·ウィンドウを活用した関心や出逢い、スタンドインを気づかせないライティングのアクロバティックなスケーティング、スクリーンプロセスと実背景撮りの違和の無さ、天使の予知能力や映画トリックよりも·視線が小物と切り結ぶ誰もが共有の映画的判断の納得生まれ(観客も天使の¼気分に)、思わぬ縦の図や美術の囲みのストーリーを越えた現出の力の感じられ·可能性、らを内から感じさせる。グラントも決していいだけの人に撮ってない力がある。常識内·忙しなさ·社会的立場·金銭本位で窮々とした人々が、余裕·思いやり·遊び心·微笑み·童心·本来の目的を取り戻してゆき、天使の奇跡への依存心·満足感も、天使も嫉妬する、天使より有利な、人と人の間のみにある葛藤·働きかけの、自律·自立のこころの気付きによって、乗り越えられてゆく。それがスマートをはみ出した先のタッチで血肉化されている。
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G·スティーブンスは、寡作だが、戦前ミュージカルでも、社会劇·ジャンル物でも、時事熱を誠実に入れ込んだ、厚み·姿勢の、一般的正義·諦観がある。極めて社会的·人間的な作風の人だ。最盛期の『陽のあたる~』『シェーン』『ジャイアンツ』等は、一世を風靡した大スターを最も輝かした上で、社会·その暴力と疲弊を適切なポイント·厚みで描きあげていて、これらの内の1本を生涯最良作とする、映画ファンも少なくないだろう(正確には嘗ての、というべきで作家主義の行き渡った現在は事情が変わってきてる)。
このヘップバーン=トレイシーものの(何という映画スターを超越した存在感、地に足のついた晴れやかさ)一本も、キューカー演出作ほどのラジカルさはなく、外交官の娘が長じて卓越したセンスで任された新聞コラムを通して、社会·世界を広く縦断し、世界の公平·弾圧への抗議·文化ユーモアセンスを、引き上げてく存在になってゆく、社会的アッピール·超越シンボル化が、スポーツ記者の妻としての、家庭人としての、価値·特定者への愛·自らの力不足に気付き目覚めて「一生共にあるべき」へ向かう、というかなりトーンダウンの括りとなっている、が。現代で描き直すと、争点はかなりズレてくるだろう。
しかし、特に序~中盤の、背後大きなミラーへの写り込みの第二の客観力、あからさまでないカメラの動きかけるニュアンス·才、視界を留め·遮る位置関係のうごめき、移動中意識を引き留める家具·家財のフレームイン、周囲の人々の都合の割り込みと彼らの聡明な察し方、ヒロインのハスッパさが魅力に感じる感覚·拡がり、等はスティーブンスならではの、社会性を引き入れ引き込んだ、固さ·厚み·張り出しの表現となってる。
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