ninjiro

脱出のninjiroのレビュー・感想・評価

脱出(1972年製作の映画)
3.8
無慈悲なる懐を往く旅。


処は合衆国南部、車中にて未だ有りの侭の自然を残す道を往く男達。
彼等は都会から、この残された自然が開発によりダム底に沈むと聞き、美しい河をカヌーで下り最後の自然に親しむ為にやって来た。
サバイバルオタクの暑苦しいマッチョ、ルイス。
絵に描いたような傲慢な差別主義者、ボビー。
文明と法による秩序で守られる社会に親しむ現実主義者、ドリュー。
そしてただ周りに流されるままの男エドという四人の面子。
鼻息洗いルイス以外は、概ねひと夏の気楽なレジャーとして何となくそれに付き合いついて来たといった風情だが。

途上、立ち寄った集落で四人は現地の村人と遭遇し、観る者の風景を一変させる。
どこかぎこちなく、伏し目を装いながら、その実じっとりと招かざる客の動向を見守る村人たちの不気味な視線。
一見にして察せられる彼らの身体的特徴は、この閉じた小さな社会で行われたであろう、長い近親交配による劣性遺伝子の蓄積の歴史を言外に物語る。
心というものが一切通い合わない村人の冷遇に、俄かに心をざわめかす男たち。

しかしこれから男たちが踏み出す無慈悲な旅は、まだ始まってもいない…。

先を読ませぬ不思議な映画である。
登場人物のキャラクターから、また配役から予測する役割や展開、張られた伏線や積み上げた中途の展開を悉く裏切り続け、若干アシッドな空気感を漂わせながら、激流の如く予想し得ない方向へ流れるストーリーは、本作と製作時期を同じくするアメリカン・ニューシネマの名作と呼ばれる作品群と並べても相当に個性的且つ、解き放たれて自由である。
また、前述した初端の集落での一連のシークエンスは、ホラー映画というジャンルには収まらない本作にして、下手にホラーの看板を掲げるそれより余程不穏な空気を醸成している。
その後の展開にしても、本作が所謂「トラウマ映画」と呼ばれる所以として代表的な事例である、「森の中で2人の男と遭遇する」シークエンスは、キリキリと張り詰めた緊張感とズタボロの疲労感をこれでもかと観る者に疑似体験させる強烈なものである。
その概要は以下のとおり。
生々しい表現が苦手な方は読み飛ばして下さい。

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...泥に塗れたボビーはブリーフを剥ぎ取られ、文字通り「豚のように」犯される。
無理に四つん這いにさせられたボビーの後ろから、男は片手でその首根っこを捕まえ、もう一方の手はその鼻をもぎ取らんばかりに天に向けて弄ぶ。
そして声高な豚の泣き真似を強要し、その惨めさに耐えかね泣き出すボビーの背面目掛けて男は狂ったように何度も繰り返し容赦無く突進する。
ボビーがその可憐な蕾を敢え無く散らされた後、今度は長銃で見張りを務めていたもう1人の男が待ちかねたように全身を縛られ身体の自由を失ったエドの顔を覗き込み、じっとりと眺める。
「俺好みのかわいい唇だ」と、その前歯のない男はニタリとドス黒い歯茎を剥き出す...。
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確かに衝撃的ではある。
しかし、この後の展開はここで示された視覚的・表層的な衝撃をなお乗り越えて、人間が誰しも持つ業というものを観る者に再度静かに検証させる、更にエゲツないものである。

人を受け入れぬ営みの奥深く、耳を澄ませば、臙脂色に熟して腐る直前の果実が叫び落ちるような、命の潰える音は絶えず聞こえる。
「自然」の中に漂う様々な思念は、其処に迷い込んだ人間の本能に直接何事かを訴えかける。
その肌がじっとりと汗ばむように感じるのは、茹だる様な気温の所為ではない。文明に生きる人間にも微かに残された本能が、その身に告げる危険信号だ。
森の中で生まれ、汗に塗れた民主主義は、徐々に男たちの秘められた野生を露わにしていく。
家族も仲間も社会も、何一つ頼ることはできない。自分は関係ない、自然に唾する傲慢な人間ではない、何を言ってもそこでは何の意味も成さず、誰も聞く耳を持つ者などいない。

自然そのものが無慈悲なのではない。
それは本来のまま、泰然とそこにある。
ただ人間がその胸の内に秘めるものこそが、
其処を地獄と変えるのだ。
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