イホウジン

日本沈没のイホウジンのレビュー・感想・評価

日本沈没(1973年製作の映画)
3.0
もっとタフだった在りし日の日本の姿

今作が他の特撮系映画と一線を画すのは、日本が沈没するという一大事に対してそれを防ごうとする策を練るパートが一切ないということだ。どの登場人物も沈没という事態を割とすんなりと受け入れて各々が自分なりの仕事を始めていく訳だが、「国土を守る」という意識が全編にわたってかなり希薄な映画であるということは一度考えてみる必要があるだろう。
これが当時可能だったのは、同時代の日本国民が今以上に「日本人は世界で対等に張り合える民族だ」という外向的な性格だったからではないだろうか。確かに公開された時期はオイルショック後であり高度経済成長の終焉という一つの転換点を迎えていた日本だったが、それは決して暗いものではなく、むしろ過去の戦争の影を完全に払拭した前向きなものとして捉えていたのかもしれない。そう考えると、今作の「国土を失う」ということに対する登場人物たちのタフさは、日本人は日本という国土がなくても胸を張れる存在であるというけっこう強気な姿勢にのっとったものと言える。
今作は現代にとって色々な意味で虚構である。阪神淡路と3.11によってフィクションとしての災害は一気に近しい存在となり、もはや終末論としての効力を失った。90年代から続く不況は日本に住む人々を内向的な性格に仕向け、その弱みにナショナリズムが漬け込みつつある(草彅版の日本沈没における強い国土防衛の意識はその反映かもしれない)。つまりもはや今作を生み出す土壌はこの国から失われてしまったのだ。そうなると、今この映画を観る時にはどうしても当時の社会の空気の参考資料という文脈も強くなってしまう。ある意味二度と映画化できない作品だ。

この映画はストーリーやテンポなどの諸々の所で破綻がみられる。
実のところ、一貫した物語や主人公が今作には存在しない。確かにこれは出来事ベースの映画だが、別にジャーナリスティックな要素が押し出される訳でもなく、だからといってセカイ系的なミクロとマクロの物語の繋がりも皆無で、簡単なあらすじすら言い難い状況にまで陥っている。主人公も潜水士なのか学者なのか総理なのか場面場面で変わっていて、酷いのはそれでも群像劇としては成立していないところだ。ストーリーに統一感がなく、終始バラバラの物語がダラダラと展開されて知らぬ間に日本が沈んでしまう。「余計な要素を切り捨てろ」と言ってしまうと結果的には全てを削除してしまいかねない程の混沌である。
物語の抑揚もいまひとつだ。今作の視覚的なハイライトであるはずの首都直下型地震と富士山の噴火のパートが、ストーリーの一要素としてしか扱われないのは甚だ疑問である。そのくせ肝心の沈没する映像が前者ほど面白みに欠けているのがとても残念で、「日本沈没」というタイトルなのにその前段階の災害が印象に残るという奇妙な結果を生み出してしまった。

あと丹波哲郎演じる総理の人柄が素敵だ。あんな絶望的な一大事を前にしても国の代表として堂々とする立ち振る舞いは、どっかの弱々しい総理とは対極にあるような存在である。
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