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ベルリン・天使の詩のTAのレビュー・感想・評価

ベルリン・天使の詩(1987年製作の映画)
4.7
「子供は子供だったころ…」

 少し籠り気味の、素朴な温かさを帯びた男性の低い声が詩の一節を読み上げ、厚みのある手と万年筆によって言葉が紙にしたためられていく。
 物憂げな弦の低い響きと透明感のあるハープの音色が重なり、私たちはハーフトーンの美しいモノクロームの映像を通してベルリンの街並みを俯瞰して眺めている。
 子供たちは天を仰ぐ。カイザー・ヴィルヘルム教会の上から街を見下ろす存在を気に掛けていた。
 人々の心の声が聞こえる。
 健やかな日常を愛でる声、あるいは一つの決意。先の見えない悩み。
 個々の人生を反映した心のざわめき、呟き、囁きの緩やかな繋がりが、人々の言葉を物語として形づくり、色を得ていく。
 心の声は会話の間にも個別に囁かれている。目の前の話とは異なる次元で生まれるこれらの言葉は、人間が本質的に孤独であることの表象でもある。

 声を聴くのは誰か。
 人々の声を聴き、彼らを記憶する。
 強者しか残らない歴史の中で、すべての孤独に寄り添って人々を記憶するのが「天使」の役目だ。彼らは歴史を持たない。自身が自覚しているとおり彼らは霊的な存在で、常に私たちのそばで私たちの心の声に耳を傾け、記憶する者として描かれている。彼らが記憶した人々の姿や声は写実的な列挙に過ぎないが、それは朴訥に生きる人々の、イメージの幅を無限に広げる美しく色鮮やかで、温かい詩だった。

 私たちにとって静けさに満ちた図書館は、天使たちにとっては人々の心の声が空間響き渡る大聖堂のような場所として、彼らが集う場所として荘厳な雰囲気を以て描かれている。静かに、また真摯に、蓄積された知に向き合う人々の重なり合う心の声は、天使にとって美しい聖歌であって、そこは祈りの場所であり住処なのだ。

 彼らは人間と直接的な係わりを持つことができない。ただ声を聴き、無言の受容と支持によって我々の生を観察する。
 肉体的、精神的な苦痛に苛まれる者にとっては心強い温かさとなり、死にゆく者との詩の交流は彼に安らぎを与え、時に厭世的な思考に堕ちて自殺を考える者には届かないことも。

 彼らが生き、死ぬ姿は天使ダミエルにとって美しく、彼自身の心を動かすことになる。
 「永劫の時に漂うよりも、自分の重さを感じたい。僕を大地に縛り付ける重さを。」

 ダミエルはあるサーカス団で空中ブランコに乗る女性、マリオンの「愛したい」という独白を耳にし、心を乱す。
 天使のような翼を付け、サーカスのテントの中で危険と隣り合わせの空中ブランコ乗りの女に一人の天使が心を奪われ、恋をして、人間として生きること、短い歴史を持つこと、色彩を持つことへの羨望を募らせる。
 それが天使としての死を意味することを知りながら。

 愛についての物語であって、愛についてのストレートな物言いは皆無に等しく、互いの存在を感じていながら直接的な接触もダイアローグも無い。心の中で言葉が積み重なっていくだけだ。それでも、難解でありながら疑いようもなく募っていく男と女の感情は観る者にとって挑発的である。
 色彩を得た時のダミエルの高揚は私たちに子供のころ失ったイノセンスを蘇らせ、誰もが天使のような無邪気さを備えていた頃を思い出す。

 あの色は何色?
 この色は?
 他人との会話、重ねる遣り取りが生む新しい感情の波が彼の人間的かつ「人間らしくない」純粋な反応を次々に引き出していく。

 人間になったダミエル。彼もまた心の中で独白していた。

 ダミエルとマリオンの出会いは私たちが想像するような感情豊かなものではない。二人が初めて顔を突き合わせて視線を合わせる時、作中最も緊張感が漂い、私たちはマリオンの長い科白に意味を求めて思考を巡らせる。
 彼女はダミエルを見て、彼が夢に現れた存在、ずっと自分の心の声を聴いていた存在であることを直観していた。

 劇中に何度も差し挟まれる戦時中の記録映像と、ホメロスの独白、マリオンの長い科白。
 未だ壁が存在していたころに撮影された本作に政治的な意味が色濃く反映されていたことは、多くの要素が示すとおり疑いようもないことだ。
 それでいて過度に政治色に染まらず、愛についての物語として広く認知されているのは、抽象的な映像詩への拘りによってだろう。


 本作を初めて鑑賞した時の“胸のざわめき”は今でも忘れられない。
 その思いを反芻したいがために、何度もここに立ち返る。


子供は子供だったころ いつも 不思議だった
なぜ僕は僕で、君ではない?
なぜ僕はここにいて、そこにいない?
時の始まりは いつ?
宇宙の果ては どこ?
この世で生きるのは ただの夢?
見るもの 聞くもの 嗅ぐものは、
この世の前の世の幻?

悪があるってほんと?
悪い人がいるってほんと?

いったいどんなだった
僕が僕になる前は?
僕が僕でなくなった後、僕はいったい何になる?
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