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甘い生活のkojikojiのレビュー・感想・評価

甘い生活(1959年製作の映画)
3.6
 難解だと言われる映画だ。しかも3時間と長い。
 ローマのセレブや知識人が集まる「ヴェネト通り」そこにはゴシップを求めてたくさんの記者やカメラマンも集まる。
 その中の一人マルチェロ(マルチェロ・マストロヤンニ)は元々作家希望であったが、いつのまにか記者になり何人もの女、乱痴気騒ぎを繰り返すパーティ、セレブ達のゴシップを渡り歩く退廃的な暮らしをしている。
 この映画はこの享楽の日々を数々のエピソードを重ねて描いていく。

 説明的な手法をほとんど行わない難解な表現方法と言われるこの映画は、不毛なマルチェロや彼を取り巻く人達の生き方を見続けてもただただ虚しく感じるばかりだ。ただ少しだけフェリーニが説明しているのではないかと思われるのが、ラスト近くの展開とそのシーンだと思う。
 
 ストーリーがほとんどない中で、唯一大きな事件は友人スタイナーの自殺だ。

 マルチェロにスタイナー家への憧れはあった筈だ。
 彼は「ここは避難所だ。日常生活を忘れる。全てが揃っている。」と言っていた。
 しかし、一方のスタイナーは決して幸せそうに見えなかった。彼は言う。
「もっとみじめな生活がいい。秩序ある社会に守ってもらう生活。予想通りに進む生活。私は平和か怖い。見かけは平和でも裏に地獄があるようで。子供の未来を考える。未来は明るいと言うが、見方によっては電話一本で全てが終わるかもしれない。情熱や感情を超えたところで芸術の調和を生きるべきだ。魅惑の秩序の中で、互いに愛し合い、時間の外で生きるべきだ。超然と」

 スタイナーがなくなって、夫人を迎へに行ったマルチェロは悲しい顔をしているが、次の場面では、これまで以上の乱痴気パーティシーンが延々と描かれる。退屈しまくって、ここに集まっている連中は決して楽しそうには見えない。特にマルチェロは、より自暴自棄な感じになっている。決して溺れているのではなく、何をすればいいのかわからない「その果て」にいるような感じがした。
 パーティの一夜が明ける。
 そして、あの不明な巨大魚の登場だ。
 巨大な「エイ」?の登場は何が言いたいのかさっぱりわからない。ただ、映し出されるこの魚の大きな目はいかにも悲しげに見えた。それがマルチェロのこころをうつしだしているか?
 そしてラスト、この映画の中で唯一救われたような気持ちになるシーン。ペルージャの少女の登場だ。
 彼女はマルチェロがスタイナーと最後に会話を交わしたあのシーンの直後に一度登場している。
 その時、ペルージャ出身の彼女を見て、彼は「ペルージャの教会にある天使の絵のようだ」と言った。それはマルチェロが彼女のことを天使だと思っている証だろう。彼女を見るマルチェロの目が優しい。
 その彼女がラストノシーンで再び登場する。そして彼を見つけて微笑みながら手話をしている。その手話になんの意味かわからない。マルチェロも微笑む。じっと彼女を見ていたマルチェロは、しかし振り返ってまたあの享楽の日々へ舞い戻っていく。
 全てを物語っているシーンに思えるのだが。

#1303
1959年 イタリア🇮🇹映画
監督はフェデリコ・フェリーニ。


2023.07.19視聴336
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