ハヤト

さらば、わが愛 覇王別姫のハヤトのネタバレレビュー・内容・結末

さらば、わが愛 覇王別姫(1993年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

レビューじゃ全然ないけど、、、


大昔、大学で書いたレポートをはります。
きっと間違ってるとこもたくさんあったと思うけど、3回連続くらいで観て書いたから、自分としては割と本気で書いたんだと思う。

観た後の楽しみで読んでいただければ。

私にとっては記録でしかないですが。
そしてネタバレでしかないですけど。。。

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『「覇王別姫ーさらば、わが愛ー」は中国の激動の時代を生きた人々と、京劇について描いた作品である。恥ずかしながら私は、この映画を見るまで京劇という文化を知らなかった。女形の存在は日本の歌舞伎で耳にはしていたが、実際じっくりとその文化を見たのはこの作品が初めてだった。
舞台上の彼らは本物の女よりも女らしく見え、性を超越した新しい生き物のようだった。この映画は京劇スターの段小楼と程蝶衣、そして小楼の妻である菊仙が主な登場人物であるが、実際は程蝶衣の生涯を描いた物語だと言ってよい。それほど程蝶衣という人は魅力的であり、また彼の生きた人生は悲劇的であった。今回はその程蝶衣という人物について考えてみたい。
 まず彼にとって「覇王別姫」という演目は、人生そのものだった。なぜなら、彼の生涯はこの演目によって作られたようなものであるからだ。京劇養成所に入るまで、六つ指という障害と、女郎という母親の素性により、おそらく悲惨な扱いを受けてきた程蝶衣が、初めて人に認められたのが「覇王別姫」を演じることだったのである。子癪と養成所を抜け出し観劇した時、彼は楚王の迫力に感動し憧れてしまった。そして関座長に楚王と虞美人の話を聞くうちに、この演目は自分と小楼がやるべき演目だと確信した。彼は楚王に恋してしまったのだ。虞美人の楚王への究極の愛と、自分の小楼に対する愛が重なっていたのだろう。覇王別姫は彼自身のアイデンティティーだったと言ってよい。彼は初めのころ自分を男だと思っていたに違いない。しかし、度重なる激しい稽古により、彼は自分のことを女として生まれたと思わずにはいられなくなった。単に舞台の上だけだ、という人もいるのかもしれないが、彼にとって京劇は自己の存在理由なのだ。彼の人生は京劇によって意味を獲得することが出来たのだが、しかし同時にそれに縛られていたと言える。
 次に、彼にとって剣とは何だったのかということを考えてみよう。この映画を通して一本の剣が出てくるのだが、蝶衣にとってこれは非常に大切なものであった。前に張翁の館でその剣を見た時に、子楼が「この剣があれば楚王は漢王を殺し、お前を妃に迎えたのに」といったからである。だからこの剣を小楼が持っているということは、彼にとって大切な意味を持つことであったのだ。結婚でいう指輪のような役割がある気がする。
 また、なぜ彼は最後に死ぬ必要があったのだろうか。舞台にとり憑かれていたという人もいるだろうが、私はそうは思わない。もう菊仙がいなくなり、二人を引き離すものは何もなくなった。そうなれば当初に言っていた、死ぬまで京劇をやり続けるということも夢ではなくなる。だから舞台の延長で死んだというのは何ともしっくりこない。私は蝶衣が、死によって自分と小楼の生きてきた人生を特別なものにしたかったのではないかと思うのである。彼にとって一生京劇を小楼とやるというのは夢であり、また存在意義であった。つまり彼は舞台と人生とを一緒にしたかったのだ。しかし自分のアイデンティティーである京劇は、中国の時代の中で衰退していき、演劇評論家である袁先生も時代の中であっけなく殺され、京劇は数々の屈辱を受けていった。あれほど迫力のあった小楼もついには歳をとり、石頭ではなくなり、セリフも息切れしてしまうようになった。この映画のタイトルが「覇王別姫」であるのでこの物語は特別であったように思えるが、実際は二人の京劇俳優が自滅していき、時代の意向に翻弄されていくだけである。「覇王別姫」が劇的なものになるには、やはり蝶衣の死がどうしても必要だったのだ。22年もかかって再び小楼と稽古した時、彼はまたセリフを「私は男で生まれた」と言い間違えた。その時、彼は気がついたのだ、自分は男であり、女ではなかったのだと。この先自分と小楼が結ばれることはないということを。だから、これからを生きるよりも、これまでの人生を特別にする方法を選んだのではないかと思う。つまり自分と小楼の生きてきた人生を特別なものにするため、舞台の上で虞美人と同じ方法で自害したのだと私は考える。これにより彼は自分の中の「覇王別姫」を完結させたのだ。舞台上での死によって自らを虞美人と重ね、小楼の為に生きたという究極の愛情表現をしたかったのではないか。最後に小楼が、蝶衣に向かって小豆子と呼ぶ場面で、小楼は微笑んでいたように思えた。死によって蝶衣は舞台を降りることができ、蝶衣から小豆子に戻った彼に再会できたからではなかろうか。
 この「覇王別姫ーさらば、わが愛ー」のキャストは、ほとんど中国の俳優がやっているが、蝶衣だけはレスリー・チャンが演じている。彼は「欲望の翼」で官能的とさえいえる色気を出していたが、この作品でもその妖しさは際立っている。特に小楼に化粧を施しているシーンや、袁先生の家で自殺しようとした場面では、鳥肌が立つほどの美しい存在感であった。3時間という長い作品であったが、飽きることなく、中国の近代史を学びながら楽しむことが出来た。京劇の舞台で使われる音楽も素晴らしく、京劇という文化が今までたどってきた歴史の偉大さを感じた。』

終わり

全然楽しい文じゃないけど、

たまには感想じゃなくて、がっつり分析してみるのもいいかもと久しぶりに思った。
ハヤト

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