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見えない恐怖のTTのレビュー・感想・評価

見えない恐怖(1971年製作の映画)
5.0
素晴らしい!!!。やっぱり、リチャード・フライシャーの猟奇殺人モノに駄作なし。

本作の監督R・フライシャーは、あらゆるタイプの娯楽映画を手がけた才人だが、『絞殺魔』や『10番街の殺人』などの実録サイコスリラーでは特に優れた手腕を発揮する。

そして、本作は彼が翌年に監督した『10番街の殺人』の前哨戦のような立ち位置の映画にも関わらず、熟練の演出力に裏打ちされた、とてつもなく簡潔で濃密な傑作だ。

落馬事故で盲目となってしまった主人公サラ。ある日、彼女が同居している叔父一家の家に帰宅すると、人の気配がない。そう、一家は正体不明の殺人鬼によって惨殺されていたのだった。

本作が優れているのは、犯人の全体像や、主人公には目の前の惨劇が“見えない”ことによる、もどかしさがサスペンスをジリジリと盛り上げているところだ。

偶然、外出中で難を逃れたサラが家に戻ると、風呂場の浴槽には裸になった叔父が血塗れの状態で沈み、居間の椅子には叔母が、サラが寝ている二人部屋の片方のベッドにはいとこが、無残な死体の姿で横たわっている。

しかし、サラは惨殺された家族に気付かず、手探りで家中を歩き回り、死体の傍を通過していく。死体の傍で平気でくつろいだり、寝むったりする姿は、何も起こっていないにも関わらず、下手なホラー映画以上の怖さがある。

大抵の猟奇殺人モノは、殺害する過程が見せ場だったりするが、本作の場合はそれを省略し、殺害が終わった後という地味になりかねないシーンを見せ場にしているところが凄い。ショットごとの構図や、手前にある死体の手のクローズアップをカットインによる、サラと死体の位置関係が的確で、いつ主人公は気づくんだという緊張感が持続される。 

そういったディテールが丁寧に積み重ねられ、等々観客の不安が現実になったところで、それまで“いつ気づくんだ”というサスペンスで進行していたのが、“犯人に殺されるかもしれない”という流れへと瞬時に転換させていたのも絶妙。

この身を削られるような恐怖が醸成されたのも、フライシャーの演出力だけでなく、サラを演じるミア・ファローの精神的な危うさを感じさせるような顔つきと熱演があってこそ。

『10番街の殺人』と同様に、本作は殺人者と被害者の肖像をひたすら淡々と映していく。『絞殺魔』みたいに、めくるめく映像テクニックを駆使して犯人の心理に迫ったりはしない。

本作の殺人鬼は、最後のシーンを除いて、星印の付いた茶色のウェスタンブーツを履いた脚だけしか映し出されない。

オープニング、カメラは『修道院殺人事件と強姦魔』という映画が上映されていた映画館から出てきた殺人鬼の脚だけを捉える。そして、移動する殺人鬼をカメラが追うと、売店には戦争や事件について書かれた新聞が並び、電気屋らしき店の展示品であろうテレビでは怪奇映画が放送されている。すると、彼のブーツにバシャっと泥水が跳ね、一台の車が去っていく。車には楽しそうなサラと叔父一家がいた。殺人鬼はその方向に向かってジッと立っていた。この足元だけを映したシークエンスだけで、「コイツ、あの人たち殺す気だ」というのがつぶさに伝わってきてくる。

そんな殺人鬼が、最後に“顔”を見せるものの、彼の素性といった具体的な説明はない。だが、逆に説明がないことで「こんなやつに罪のない人が殺されたのかよ」という不気味さが際立っていた。

全編におけるモノクロームに限りなく近い色調は、ブリティッシュ・カラーノワールとでも呼びたい渋さだ。監督本人はブルックリンの生まれだが、イギリスの陰湿な空気感をパーフェクトに捉えており、息苦しさ満点の世界が見事に視覚化されている。

だが、唯一家の床の色が深紅なのは、アルジェントの作品を連想したりした。ジャーロみたいな話だから、フライシャーは意識してたのかな。

この映画を観ていたら、『絞殺魔』や『スパイクス・ギャング』など大好きなフライシャー作品を観返したくなったが、最近はそんな余裕が全くない。旧作が観たくても、映画館で観たやつで手一杯だし、残りの時間は読書と美術館巡りで終わってしまう。そのため、3週間前に観た映画の感想もろくに書けやしない。感想書くの時間の無駄だし、Filmarksやめようかな。どうせ、こんな読みづらい文章、誰も読んでないだろうし…。
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