イホウジン

もののけ姫のイホウジンのレビュー・感想・評価

もののけ姫(1997年製作の映画)
4.4
憎しみを抱えた者同士が共に生きることは可能か?

ここまで直球に「共生」をテーマにした映画はそう多くない。ヒューマンドラマにしてしまうと、どうしても人種や宗教といった個々の事象レベルの階層でしか語れないし、ファンタジーで表現するには、普通ならその内容の難しさから少なくとも子供向けでは無くなってしまう。しかし今作は共に生きることの難しさと希望を華麗に表現しながらも、万人が楽しめるエンタメ映画としての形態を常に保っているという、奇跡のような映画になっている。
今作の奥深い点は、世界の複雑さをそのまま映像で表しているところだ。敵味方は全編にわたり識別されず、終わり方も決してハッピーエンドとは言えないものでもある。登場人物たちの感情の幅も広く、ある時は友好的になってもまたある時は敵対するような展開も相次ぎ、普通に見てしまえば一貫性のないストーリーとも受け取れるかもしれない。だが今作はそうした特徴を携えながらも、観客は鑑賞後に必ず「なにか」を感じ取る。今作のメッセージは制作陣の範疇を越えたレベルで多義的であり、10人いれば10通りの映画の解釈が存在しそうな勢いである。この解釈の多様性を生み出せるのは、主人公のアシタカが蝦夷かつ人間という“第三者”として行動しているからだ。
(ヤマトの)人間でも自然でもない映画内のどの場面でも他者にならざるを得ない主人公は、“たたりの真相を確かめる”という大義の下で「観察者」という立場を演じることとなる。サンを人間社会に迎えようとする一方で、タタラ場では結果的に住民とも距離を取り、彼の立場は常に不安定だ。しかしだからそこ、1歩離れた場所から物事が見渡せることで、生き物たちの感情や思いの多様性と複雑さ,そしてその衝突が引き起こす「支配」の感情の愚かさ,そんな腐った世界でも“共に生きる”ための努力を絶やさないことの大切さを、身をもって体感することとなる。
アシタカとヤックルの関係性も示唆的だ。ヤックルはアシタカのそばを離れることはなく、逆もまた同様の描写が度々登場する。まさに今作の中で最も理想的な“共生”だろう。単なる主従関係であれば、サンに紐を解かれた瞬間に野に出るはずだ。それが起こらなかったのは、両者の間に信頼関係とも利害関係とも言えない補完し合う関係性が成立していたからだろう。今作で唯一関係性の硬さが揺るぎないコンビだが、この最もミクロな“共生”が物語の軸にあるからこそ、今作が常に希望を含むストーリーであり続けるのかもしれない。
敵味方を区別できない複雑さは映像にも現れている。それは、シシガミの森の大自然もタタラ場の人たちが作った銃火器の爆炎も、どちらも「畏れ多いもの」として描かれているということだ。特定の登場人物や場面に対して美や畏れを取り入れる一方、他方に醜や恐れを取り入れることは映画では頻繁に起こることだが、今作はそういった肩入れが一切なされない。ある意味神の視点のような描き方なのかもしれないが、それが結果的に「“敵”“味方”と区別している対象のどちらにも良い面と悪い面がある」ということを非言語的に観客に伝わることとなっている。
それでもこの曖昧な作品の中で揺るぎない信念として伝えられるのは、「相手への恨みを原動力に行動を起こしてはならない」ということだろう。同様の事象は「風の谷のナウシカ」の父殺しのパートでも見られる。今作で“たたり”や“恨み”にかかった人間やもののけは皆我を失い無益な犠牲さえも生み出してしまった。相手に対する負の感情を抑制することは至難の業だが、それを受け入れ超えた先に真の意味での「共生」があるのかもしれない。

終盤の展開がそれまでのリアリズム路線から一変してファンタジックになってしまったのが少し残念に思う。確かに映画自体の着地点が最後の最後まで分からない難しい映画ではあるが、ここまで来たならいっそ「終わり」にこだわる必要すらもなかったようにさえ感じる。

あと今作は今まで金ローで観てきたが、今回初めて映画館で観て、やっと映画の“全体”が掴めたような気がした。結局テレビで観る映画は、なぜか画面の中心にいる登場人物にしか目が行かない。映画館で観て、ようやく“中心”にとらわれない映画全体の空気を察知できたように思える。やはり映画というのは唯一無二の存在である。
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