みかんぼうや

若者のすべてのみかんぼうやのレビュー・感想・評価

若者のすべて(1960年製作の映画)
3.8
世代的にこのタイトルからまず連想するのはフジファブリックの名曲とキムタクと萩原聖人が主演だったTVドラマのほう(内容忘れたけど)。こちらは巨匠ルキノ・ヴィスコンティ監督初期のネアレアリズモ作品にして、若き日のアラン・ドロンが主演。

物語は、ある男5人兄弟とその母が、父親の死をきっかけに南イタリアから北イタリアに移住して生活を始める中で生まれる、家族の絆と崩れゆくその関係性を描く。3時間という長編作品ですが、ダラダラとした無駄の多い苦手なタイプの長編映画ではなく、「ゴッドファーザー」同様、この家族の関係性を描くには必要不可欠な3時間。

家族誰もが「善人だった」と言う次男シモーネがあることをきっかけに欲望の沼に落ちていく、という分かりやすい闇落ち映画ですが、それを5人の兄弟の関係性を通じて世の中の人間関係の縮図のように表現しているのがとても巧く面白いです。

次男のことを気にかけつつも自らの家庭を持ちあまり深入りしたくない長男、次男を救いたいがために、次男をかばい赦し続け自己を犠牲にしてまで支援を続けようとする聖人君子のような三男(アラン・ドロン)、次男を愛しながら厳しく接することで次男に自ら気づきを与え更生させようとする四男、純粋な子ども心から次男を慕う五男。

この兄弟の関係性から思うことは、人間の欲深さの恐ろしさと、その道を踏み外した人間に人はどう向き合うべきかという問いかけ。

ときに全てを受け入れ全てを赦し、なお本人が望むものを与え続けることが本人を救うこともある。しかし、それはその人間の欲求をさらに膨張させ、もはや誰も制御できずにさらなる悪行を引き起こすこともある。

赦しの中で自ら気づきを得て自省できる人間であれば良いが、多くの人間はそんなに理想的な思考と行動をとる生き物ではない。だから、時に制限を設け厳しく処罰することで本人の道を正すことが必要であり、それこそが本人のことを真摯に考えた愛情であることも多々ある。そんな人生の皮肉的な内容が、「君ならどうする?」と問いかけてくるようでした。

また、本作で何度もこの家族たちが発する「北イタリアに来なければ・・・」「南イタリアにいたころは幸せだった」「また南に戻りたい」という言葉。これもまた、目の前の厳しい現実から目を背けるために“たられば”にすがってしまう人間の本能。作品内でも示唆されるように、実際は南イタリアも変化を続けているわけで南に戻ったところで必ず現状が好転するわけでもない。ここにもまた人間の弱さが表現されているように思いました。

3時間にわたる人間ドラマは、一つの家族(と一人の女)の関係性という小さな枠を描いているようで、人間真理の根幹にある非常に深いメッセージが凝縮された作品でした。
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