ninjiro

ダークホース リア獣エイブの恋のninjiroのレビュー・感想・評価

3.7
人生とは小さな失望の累積だ。

夢や希望の墓場と言ってもいい。
それは、逆転してみれば、夢と希望がその傍らには常にあるということでもある。

どんなに小さくて他愛のないものでも、その人にとってそれは一時の夢や希望となり得る。
しかしそれらは小さければ小さい程手に入れ・達成し易く、そうなった時点でそれらはその役割を終える。
叶えてしまった夢は、最早夢ではない。
手に入ったものは、これもやはり他愛のない空虚なものでしかなかった、と気付くだけの話。
人生という平面図には、それら役割を終えた夢や希望の墓標が次々と建てられ、有限の面積を埋めて行く。
世にそれを「経験」又は「時間」という。

それを繰り返し、その反復運動から得られるエネルギーを推進力として、自らの人生を価値あるものにする者、人生に華を添える者がある中で、同じ数だけ繰り返した「時間」に何の意味も与えられずにうず高く積まれたゴミのような「経験」の中で窒息しそうに生きる者もある。
彼に同情の余地などない。
全ては彼が自ら選び続けた「時間」と「経験」の結果なのだから。

本作の主人公、エイブとはそのような者である。

不動産会社を経営する父、裕福な家庭のその庇護の元、経済的には何の不自由もなく育った筈だった。しかし、同じ庇護の翼の元で育った筈の弟は医師として独立した生活を歩み、対して自らは父の会社の厄介になり、両親と同居し、父の影響力の元大した成果も期待されない仕事を適当にこなす日々。大きく水をあけられた現状にも深く踏み込もうとせず、与えられたケチな資本を頼りにフィギュア集めに没頭することで空白を満たす毎日。
その空白は自らが産んだものではない、産まれ持った遺伝子や、「育てられた」環境に起因するものなのだ、という銘入りで勝手に鋳造した盾が、いつまでも魔除けのように自己を正当化してくれていると信じている。

これは、深刻な病気を患った人の話である。

エイブが恋する相手は明らかな病を抱えている。
エイブ自身が抱える病は、現代の医学上の定義にはない病、しかし、今般の社会の営みの上で人生を成功裏に運ぶに当たっては致命的な欠陥そのものである。
そこに寄り添おうと試みる恋の相手の心理は、正直ここだけでは理解し難いが、トッド・ソロンズの作品を全て観た人ならばキャストを見て、又はエンドロールを観て成る程、と思う筈である。
しかし、そんなものは理解できなくても構わない。
その恋愛に似た出会いは、この物語の本質を動かす為の動機付けでしかないのだから。
「リア獣エイブの恋」なんて邦題は、このちょっと夢見がちなパッケージ写真は、はっきり言って商業用の罪深きフェイクだ。
トッド・ソロンズはどんな些細な「甘え」も許さない。
物語のこうなるであろうという幾つもの予想を裏切り、映画的な「てにをは」や観客に与えるべき感情の遣り処すら無視し、徹底的に既存の概念に頼る全ての「甘え」を駆逐する為にのみ映画を撮っているのではないかとすら思える。

報われない人生を送ったとしても、
それだけで彼は負け犬ではない。
大きな事を成し充実したとしても、終わる頃にはそれに見合うだけ、その人生には幾つもの大きな疵が付くだろう。

どっちだろうと誰も気にしやしない。
それを気にするのは自分の心だけ。
己の心がそれを良しとするか、悪しとするか。
それだけだ。
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