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ザ・デッド/「ダブリン市民」よりのninjiroのレビュー・感想・評価

4.1
遠い昔に置いてきた我が身と共にある想い出。
故郷であり、家族であり、初恋であり、苦悩であり、懐かしい原風景とともにある我が身は若々しくも、影も無き無垢な白に見えながら、路傍に積まれた雪に同じく、時を経て内包する黒い土くれだけを残して消えゆくもの。
ジョン・ヒューストンの遺作として知られる本作は、ジェイムズ・ジョイスの初期短編集「ダブリン市民」の一篇、「死者たち」を原作とする小品。1904年ダブリンの旧家で催されるささやかなクリスマスの集い、雪の一夜の出来事。
ジョン・ヒューストンといえば、ハンフリー・ボガードと組んだ一連の往年の作品等で見せた個性とその私生活から、一般に豪放磊落かつ破天荒なイメージの強い人物であるが、この作品はそんな印象とは正反対の繊細さ、静謐さ、朧な神秘さえ秘めている。
年老いた老姉妹が催す心づくしの暖かな招宴、普段は互い音沙汰も少なくなったであろう面々、小さく波立つことはあっても概ね心は穏やかに、今日の日を滞りなく終えることに全ての気持ちは注がれる。語らいも、昔話は華やかに過ぎず、結ばれなかった恋の詩は美しき秘密として、今夜の宴に居ない者、この世に最早居ない者の顔を思い浮かべ、「死者たち」の嘗て生きた喜び哀しみは、集いし生者たちの背に、肩に、瞳の奥に、うっすらと成層する。
この作品を最後の作品として選んだヒューストンの潔き心情に底通する、成熟してもう決して若いとは言えない人々の、彼ら自身を形成する要素とも言える胸に永く秘めたる想いが溢れ出す時、劇中重要な鍵となる歌曲「The Lass of Ocram」の美しさに同期した心は震え、いつしか切っ掛け知らずに心に留めることとなった懐かしい風景を思い出す。

自分自身が存在し得ない地平にも、しんしんと雪は降り積もる。時代を超えた、空間を超えた、優しい諦観に包まれて、暖かな部屋、しっとりと露で濡れた窓から青白い夜を臨み、静かに、穏やかに、想いを馳せる。
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