shibamike

攻撃のshibamikeのネタバレレビュー・内容・結末

攻撃(1956年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

柴三毛「"ロバと、ある土日"の映画?」

金曜の夜、岡山県に住む小学3年生タクオの家に、数年ぶりにアフリカの叔父さんがやって来た。叔父さんはアフリカで動物の密猟をして生計を立てており、国際指名手配中の本物の悪党だ。叔父さんは、ロバを連れていた。

叔父さん「今週の土日だけでいいから、このロバを預かってくれないか?」

そう言い残すと叔父さんはロバをタクオの家に置き去りにして、さっさと消え去ってしまった。
タクオがある土日に過ごすロバとの物語が幕を開ける…

みたいな映画かと思ったら、そうではなく、「ロバート・アルドリッチの映画」であった。しかもタイトル「攻撃」だし。


昨日、ネットのニュースでエマ・ワトソンが「男性もジェンダー・ステレオタイプから自由になるべき」とかの発言をして話題になっているというのを見た。要するに、"男は逞しく強くなくてはいけない、と思うのやめな!"ということであろう。
本作ではまさにこの"男は強くなくちゃいけない"と思い続ける割りに、ごまかしごまかし生きてきた男が悲劇を巻き起こす。

1944年、フランスのどこか。ドイツの侵略に耐えるフランス・アメリカ軍が映画の主要メンバー。

アルドリッチ監督の映画は、一人の訳あり人間(それも人間の弱さ故の変人)が騒動を巻き起こすというのが特徴なのかも、と思った。
本作での訳あり人間は"クーニー大尉"。
父親が判事という上級人種らしく、そのためかどうかは不明であるが、クーニーは父親から「立派な男になれ!」と虐待まがいの教育を受けてきたせいで、外面ばかり取り繕い、父親の機嫌ばかり気にするクズ人間になってしまった。
上司が無能だと部下が苦労するというのは、サラリーマン界の常識であるが(自分の場合は部下である自分が無能なので、上司が苦労している)、この映画ではそれが会社ではなく戦場であり、部下である兵士達は命がけ。

クーニーは普段、威張り腐っているが、命のかかった厳しい場面になると、その本性を現す。敵の猛攻に絶体絶命となった兵士達が、クーニーに援軍を要請するのであるが、クーニーは援軍出動に踏み切れない。
ピンチである味方の援護に向かって、自分の身に危険が迫ると考えると、臆病の気持ちで胸が一杯になり、腰がひけてしまうクーニーなのであった。
味方の兵士達は援護なく無残に死んでしまい、軍内の士気も下がる一方。
クーニーは責任を追及されると「あんな無謀な状況では助けようがない!」などと証拠が無いことをいいことに責任逃れの一点張り。
こんなアンポンタンがどうして出世してるのか?と疑問に思う観客多数であるが、ちゃんと理由があった。

クーニーは父親が判事と社会的に影響力がある故、その縁故で甘い汁を吸おうとする不届き者がおり、そいつの策略によってクーニーはそこそこの地位についているのであった。その不届き者の大佐をリー・マーヴィンが演じているのであるが、やっぱこの人良い!好き!ゴリラ顔!

クーニーの人間性について考えるだけで、結構面白いのであるが、それ以外の部分でも本作は見所一杯。英雄コスタ中尉が敵の潜む廃墟の街へ果敢に攻め混み、ボロい一軒家に追い詰められる密室籠城や、終盤の教会地下でクーニーが急に調子に乗るもあっけなく殺されるシーンも面白かった。
映画は全体的に面白かったのであるが、登場人物達にあまり感情移入できなかった。

クーニーは映画終盤で一時錯乱し、本当の心の内を明かす。
「30歳になったある朝、気付いたんだ。(自分が勇敢になる)"いつか"なんて絶対にやってこないことを。」結構自分も図星で、ギクリとしたが、"いつか"が来ないからどうだと言うのか!とやせ我慢して生きていくしかない。

エマ・ワトソンは上述の発言をして、一部炎上しているらしい。それはエマ・ワトソンの歴代のボーイフレンド達がいわゆるジェンダー・ステレオタイプの男性ばかりだからというためらしいが、それは別にしょうがないんじゃないであろうか、と自分はエマ・ワトソンに媚びておく。
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