shibamike

ヨーヨーのshibamikeのネタバレレビュー・内容・結末

ヨーヨー(1965年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

おもちゃのヨーヨーはくるくる回りながら、手から遠ざかって、糸の限界に来ると手へ戻ってくる。
道化師ヨーヨーの人生も、くるくる回ってどこかへ行ってしまいさうだったけれど、元に戻ってくるのであった。


1925年、キッズヨーヨーのお父さんが超大金持ちで豪邸住まい。
ジャック・タチ マナー?の上品ながら急所をついてくるシステマチックなギャグの千本ノック。
最近、自分はドラゴンボールにハマっていて、「ベジータのM字の髪型変だよな〜」と思っていたのだけれど、このお父さんのM字は結構ベジータを思わせる鋭角なM字であった。
 車で犬の散歩とかも笑ったけど、特筆すべきは、「左足のドアップシーン」であらう。革靴を履いた男性の左足のドアップ(つま先が上を向いて、左足の左側面をドアップ)。その革靴を艶っぽい姉ちゃんの華奢な手がじっくり時間をかけながらねっとり脱がしていく。我々観客はいつしか男性の革靴の足がエレクトしてそそり立つイチモツにしか見えなくなるのであった。アホだろ。


1929年、世界恐慌。少年ヨーヨーのお父さんもあっという間に文無しに。首吊り自殺するための台として使う椅子まで差し押さえられる。家族はキャンピングカーで地方巡業のドサ回りへ。
お金は無いけどヨーヨーにとって幸福さうな時代に見えた。
子どもの頃って、自分の家が貧乏ということは何となくわかるけど、何で自分の家が貧乏なのかの理由まではよくわからない気がする。子どもには知る由もない大人達のあれこれ。お父さんとお母さんニコニコして仲良いし、悲壮感なんてまったくなく微笑ましかった。
 川で水を汲むことができたり(現代からするとこんな贅沢ないよな、現代日本は電気代とガス代がとにかく高ぇっ!)、お金や定常的な仕事がなくても、「まぁ何とかなるっしょ」という心理的安全が今よりあるのかも。でも、別に現代だって「まぁ何とかなるっしょ」と自分は思っているので、いつの時代もみんな思っているのでせう。


1939年、第二次世界大戦。生き残った人々と生き残れなかった人々。
 そこからさらに何年か経って、テレビの時代がやって来る。
サーカス稼業一筋だったヨーヨーも成長して大きくなりひとり立ち。テレビのコント番組?かなんかで人気者となり大出世。
 映画の中で、テレビ番組に出ている評論家?が勿体ぶって1人で語るシーンがあった。
評論家?「これからはテレビの時代です。皆さんの望むものが向こうからやってくるのです。皆さんは居心地の良い自分の家で、ただテレビの前に居れば良いのです!」
自分はハイティーンの頃、重度のテレビっ子だったので、この評論家の言う事もなるほどよくわかる。し、これはテレビという部分をネットやSNS、AI、サブスクに置き換えても良いやうに思う。けれど、ただやって来てもらうだけでは自分の血であったり肉にはならない、とハイ30ティーンのオッサンになった今自分は思う。
テレビ番組は家にやってきてくれる。
サーカスのドサ回りだってあなたの街へやって来る。
でもテレビの電源を入れるだけ、サーカスを見に行くだけ、ではなくこちらの心の玄関まで開け放たなければならない、さういう風に思う。NHKの集金も心の玄関までには押し入ることはできないんである。


お金持ちになったヨーヨーの夢は、お父さんのかつての豪邸を復活させること。
いよいよ豪邸を復元し、盛大な社交パーティ。でもそこにはお父さんもお母さんもいない。
べらぼうな豪邸にデタラメなエレファント。
エレファント「お迎えに来たゾウ〜🐘」


ヨヨ三毛 ヨーヨーの一句
「子供時分 ハイパーヨーヨー 当たったよ」
(季語:コロコロコミックス特製のハイパーヨーヨーが小学生の時に懸賞で当たった→ハイパーヨーヨー→速攻飽きた→悲しい→冬)
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