【長くなった】
高橋源一郎の小説を映像化したらこんな感じだろうか。過剰さと隠喩…。話し声がオペラの女、金髪の消失、不具の集団、両手がチリ国旗になったり、聖人を祝福して連続ジャンプしたりと、一言では説明しづらい事件が続く。
時おり現れる詩的な語りが良い。ホドロフスキーが幼年期の自分を抱きしめながら語る、
"君に私はまだ存在せず
私に君はもう存在しない
時の終わり 物質が起源へと
戻る道を進み始めたとき
君と私は 決して現実ではない
思い出になるだろう
私たちは何かの夢
幻想に身を委ねなさい
生きるのだ"
という言葉で、ボルヘスの小説を思い出した。(老人となった主人公が、あるとき20代の自分としか思えない若者を発見する。2人は話すうちに、互いが50年の時を経た自分だと確信するが、若者が「ちょっと待ってください、本当に僕があなたなら、あなたの方でなぜこの出来事を覚えていないのですか」と尋ねる。老人は「私たちのうち片方は、夢の中でこの出来事を経験したのだ」と答える話。タイトル忘れた)
時折安易でヒッピー的な東洋解釈を感じて白ける場面もあるが、それを共産主義と唯物史観、権威的な父親像という、いかにも20世紀的なものに対するカウンターとして割り切れば、この作品は簡単に古びてしまう。
その手の20世紀的な対立を差し引いても残るのが、ホドロフスキーがずっとテーマにしている「物質的な存否を超えて、血脈や記憶を頼りにリレーされていくもの」であって、そのテーマから導かれた帰結として映画を観ると、かなり面白いことをやっているのではないか。何より80超えてこれを撮ることに説得力がある。例えば、夢が先に来るという現代的な(新しくはないということだ)描き方にしても、全てがデジャブに思える老年の感性が入ることで、ある意味刷新されているわけだし。
何十年もずっと同じ話をしている老いた芸術家が、見直されるのか、それとも忘れられるのかを決める因子のひとつはこういう所にあるのではないかと思った。「周回遅れのトップランナー」というクリシェがいつも取りこぼす特異な因子のことです