bluetokyo

さよなら、人類のbluetokyoのレビュー・感想・評価

さよなら、人類(2014年製作の映画)
3.2
シチュエーションドラマという感じか。意味やテーマを考えながら見るが、そういうのが、うっすらとほの見える中盤以降は、正直言って、飽きる。冒頭は、博物館で、展示してある鳥だかのはく製を見る男のシーンである。と思わせながら違うのだ。なぜなら、もし、そうなら、鳥のはく製を見る男の目線が存在しなければならないからだ。つまり、男とカメラが一致しなければならない。鳥のはく製を見ている男を、「見る」シーンなのである。博物館や鳥はどうでもいいのだ。

どうでもよくなったシーンの次のシーンは、人の死にざま、三態である。当事者感がないので、その死は、まったく、切実ではない。切実ではない、という目で見ると、当事者、あるいは、当事者たちにとってさえも、死は、切実ではない、と気付いてしまう。たとえば、フェリーのカフェテリアでのシーン。ある客が、ビールとシュリンプサンドを注文してカネを払ったところで、死亡した。ウエイトレスが、おずおずと、会計は済ませてあるので、もったいないから、誰か、ビールとシュリンプサンド、いりませんか、とほかの客に訊ねるのだ。
もちろん、実際に、そんなことは起きないのである。ただ、おかしいのは、その場の多くの人たちは、間違いなく、ビールとシュリンプサンド、もったいな、と思っているに違いないのだ。つまり、人の死に対して当事者感がないのだ。

あるダンス教室。やや年増の女性講師。レッスンのとき、ある若い男の体を触るわけだ。その若い男が好きらしいのだが、その若い男は、気持ち悪がって、教室を出てしまう。出たところに、掃除をしている女性がいて、携帯で話している。元気でなにより、と。やはり、ここでも、当事者感はないのである。

ある床屋。サムが待っていると、床屋のオヤジが、大声で独り言をいうのである。なんでも、自分は、船の船長をしていたが、船酔いがひどくて、仕事ができなくなったので、床屋を手伝うことにした。
それを聞いていたサムは、びっくりして、そっと床屋を抜け出すわけだ。誰が、そんなヤツに、自分の髪の毛を刈らせるものか、である。

サムとヨナタンは、面白グッズの営業である。売っているのは、ドラキュラの牙と笑い袋と歯抜け親父の被り物だ。面白グッズを売っているわりに、この二人は、少しも面白そうではない。二人ばかりか、二人の周囲も面白そうではない。そこが妙に面白い。

サムとヨナタンが、カフェに入ると、なぜか、むかしの馬に乗った兵が店に入って、なにやら言い立て、女性を店内から追い出したりする。店の外には、兵が行軍している。
これも、当事者感のなさからだろうか。

最後は、水曜なのに、木曜と区別がつかない男。当事者感がなくても、日常があれば、成り立ってしまうということか。

シュールで面白いが、風刺的なものが入ると、興醒めになってしまう。
bluetokyo

bluetokyo