dm10forever

セッションのdm10foreverのネタバレレビュー・内容・結末

セッション(2014年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

【「狂気」の先にあった「境地」】

実は1年くらい前に一度レンタルで借りて観ていました。
ただその時は「面白い!」という前評判が邪魔して、観ている最中から「面白くないわけがない」と自分自身のハードルを必要以上に上げすぎた結果、映画の本質からどんどん気持ちが逸れていってしまい、最終的には『サイコパスフレッチャーの餌食になった前途ある若者の悲劇』みたいな変な感覚だけが残り、これをコメントとして残すにしても自分の中で全く整理がつかないな・・・と。
というわけで、とっ散らかったまま放置してしまったという「勿体ない作品」扱いとなっていました。

そして今年初旬の空前の「LaLaLand」フィーバーによって再度クローズアップされた、このチャゼル監督の出世作も、このまま放置しておくのも失礼ではないかと、自分に言い聞かせての再鑑賞です。

これね、LaLaLandを観た後だからなのかな?前回とは全然違った印象で自分に飛び込んできたんだけど、やっぱり周囲の声ってよくも悪くも影響は大きいんだなって改めて思いましたね。
まず自分にとってずっと残っていた疑問「フレッチャーの真意」ですが、これって結局何だったんだろうか?と。
ああいう「鬼教官」「スパルタ教官」自体は実際の社会(学校)にも沢山いるし、他の映画でも沢山描かれている(「愛と青春の旅立ち」の鬼軍曹フォーリーみたいな)。
でも疑問だったのが「第2のチャーリー・パーカー」という言葉を盛んに使っていたけど、本当にそれが真意だったのか?っていうこと。
物語の冒頭でフレッチャーがニーマンに声をかけ、自分のバンドに引き入れる行から始まるけど、あれはニーマンの才能を見抜いたから?それとも「しめしめ、次の獲物はお前じゃ!」ってことなのか?でもそれだとやっぱりサイコパスの拷問映画になっちゃうよね。
違う違う(笑)
確かにフレッチャーはシェイファーでNo1のジャズバンドを指揮しているという自負もあり、指導も「超」完璧主義者なりのやり方なんだけど、かたやニーマン自身がどういう心境であのしごきを受け続けたのだろう?
彼自身、どこか世間から外れたアウトローのような立ち居地ではあったと思うんだけど、父親と一緒に映画を観るとか、普通の女の子と付き合ってみるとかで「普通の青年」をどこかで保っていたのかなって。
それがフレッチャーとの出会いで自分の中の「狂気じみたストイック」な一面が湧き上がってきて、どうにも押さえが利かなくなっていったような印象を受けた。
フレッチャーとニーマンは結局タイプは違えど似たもの同志だったということか。
あのしごきを「堪えた」とみるか「闘った」とみるかによっても印象は変わるかもしれないけど、僕は「闘った」方だと解釈している。
そして似ているからこそ「相容れないもの」「受け入れがたいもの」がお互いにあり、その激突が最後の最後、激しいクライマックスへと繋がる。
ニーマンが「暴走」しだしたとき、フレッチャーは本気で「殺してやる」と言ったと思う。だが本当にラスト1分前、二人の間に微妙な変化が訪れる。
あれだけ激しく遣り合っていた二人の波長がシンクロするのだ。命を削るかのように激しく叩きつけるドラムのテンポがフレッチャーのそれに合っていき、一瞬の静寂・・。
そして二人が絶叫するかのように一気に爆発するドラム。
ラストシーン、フレッチャーの意味深な笑みを抜いた直後にエンドロール。
彼らにとっては、きっと「次のチャーリー・パーカー」なんてどうでもよかったのかもしれない。あの二人にしか知りえない境地がそこに見えていたから。
う~ん。もう一度みたい。
そして観るたびに又何か発見できそうな気がする。
ただひとつ気になったのは、なぜ邦題が「セッション」になったのか?ということ。
原題「Whiplash(激しい鞭打ち)」の方があっていた気がするし、どうせ英語にするならそのままでもよかったのでは?なんて思ったりもしたけど・・・。
「セッション」・・・ジャズバンドの話だから?いやそんな安直じゃないよね、きっと。
ニーマンとフレッチャーの1対1の対決を「セッション」と表現したのか?
う~ん。それはそれでいいのか・・・。
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