渡邉ホマレ

シン・ゴジラの渡邉ホマレのネタバレレビュー・内容・結末

シン・ゴジラ(2016年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

もしもとんでもなく危険な巨大生物が現代の日本に上陸したら

シン・ゴジラ
計3回鑑賞しました。
最初はあんぐり、2回目でなるほど、3回目でこれはすごいかもしれない…と、段階的に私の中の評価が進化して行きまして、今や大絶賛!

序盤に描かれるのは、日本政府というものがいかにお役所的に有事の危機対応を行っていくのかという過程と、類型的に表現された閣僚達の個性。延々続く不毛な議論や、今そこにある危機にたいする呑気な姿勢に対し、主人公・矢口と共にイライラさせられます。
この長々とした総理官邸内でのやりとりは秀逸で、対策会議を開くための対策会議など、本当に理屈と建て前を重視した世界を緻密に描きこまれています。
詳しくないので本当かどうかはわからないのですが、有事に対する各省の対応が非常に分かりやすく、それらに振り回される総理大臣の姿をある種滑稽に映します。
観客の視点人物となる主人公・矢口もまた、有事の原因が生物によるものではという可能性を指摘するものの虚構として一笑に付され、ぐぬぬ…となるだけの存在。
しかし、矢口以外の誰もが想像だにしなかった可能性が現実のものとなり、彼らの不毛な議論をぶち壊すように姿を現す事で、一気に緊迫感が走る…かと思いきや、不毛な議論はまだまだ続いてしまうのです。

まとまらない意見、決断だけを迫られる総理大臣、しかし総理は総理なりの自意識(国民に安心感を与えたい)から、「危険はない」という独自の意見を公式見解として発表してしまう始末。その直後に上陸したその生物は、観客の想像をはるかに超えた不快感を伴う有機的な忌まわしさ!
赤ん坊が玩具を壊すように、容易く街を廃墟と化す生物。何より注目すべきは魚の様な目で、何を考えているのか、ヒトが窺い知ることは決してできません。このヌルヌルした造形が素晴らしい!
急遽催される対策会議、対策案はしかし後手後手に回り、その生物の侵攻を止めるには至らず、やがてさらなる進化を遂げた生物は、思うがままに街を蹂躙した後、海へ還るのです。

生物による被害状況は、漸く政府に事の重大さを知らしめるのですが、それでも現政権の措置は甘い。と同時に、日本人の美徳、人道的な側面も確かに示されます。しかし、それが被害を拡大するきっかけとなる皮肉をも描いており、スキを見て介入して来る大国の意地悪な隠匿と強硬な体質は、戦後70年以上を経ても、日本がその属国であるという事実を示します。ナサケネエ…。

不眠不休で生物への本格的な対策を講じるのは、矢口をはじめとする次世代の政治家たち。
ここで面白いと感じたのは、官邸前で行われているデモの様子ですね。
「ゴジラを殺せ」か「ゴジラを守れ」か、敢えてなのか、よく判別できません。コレは私の耳が悪いせいなのかも知れませんが、もし敢えてであれば…。
「官邸内で不眠不休の対策案に挑んでいる矢口達には、デモ隊の声はどちらとも判別できないノイズとしてしか聞こえていない」ともとれます。コレは、本作の視点人物があくまでエリート層であり、彼らにとっての一般市民の声は…というヤダ味とし受け取られる可能性があるかも知れません。確かに本作は、逃げ惑う人々の姿は描かれるものの、彼らが直接的に被害…要するに踏み潰されたり食べられたり血を流したりする姿、つまり一般市民の視点はあまり描写されません(団地内の家族ぐらいでしょうか)。
コレを不満に思われる人が出るのも仕方がないかも知れないです。私もそうでした。

さて、話が逸れました。矢口、若い世代の彼らは英語を操り、大国からの使者と真っ向から渡り合う気概を持っています。
矢口チームが動く時に、『エヴァ』の音楽が流れるのですが、段階的にバージョンが違います。これも「エヴァ世代」のメタファーなのでしょう。『エヴァ』本編でファンを煙に巻く庵野監督が、『ゴジラ』ではそのファン世代に希望を託すような演出を行っているのは非常に興味深く、その世代の人々は責任を喚起され…るといいですね。
石原さとみさんの英語には思わず笑いが漏れましたが、ネイティヴであるというイメージをキチンと伝えるための意識と努力を感じさせ好感が持てます。予告では不安要素でしたが、本作以降ECC英会話の会員がばく増するような気がしないでもありません。

しかし再び上陸する生物…「ゴジラ」は、それまで日本政府が講じていた対策を嘲笑うかのようにさらなる進化を遂げています。
その進化過程も見たかった気がします。
そして遂に戦後初の戦闘が行わざるを得なくなるのですが、その描写は否応なくアガる☆
実弾兵器をものともしないゴジラに、ミサイルによる攻撃を決断するくだりに、ここまで綿密な順序立てがあるものなのだと感心させられます。
しかし、必死の攻撃に意を介さず、ゴジラはさらなる進撃を続けるのです。
ピエール瀧さんの台詞が熱い。
そしてゴジラの侵攻が首都まで及んだ時…ここが秀逸だと感じました。
ゴジラを最終進化させるきっかけは、「武力介入した大国による爆撃」だということ。
彼らなりの正義が、荒ぶる神のシンの力を覚醒させ、予告編で見た造形とポスターの造形を見比べた時に感じた違和感の正体がここで明らかにされます。
その姿はまさしく、かつて日本に2度落とされた核兵器による被害者の怨念そのもの!
そして次の瞬間放たれる一撃は、まさしく東京に落とされる核兵器のメタファーです。
口からだけでなく、背ビレ、そして尾からも発射される放射能熱線は、現政府に圧倒的な敗北を与えるのです。

残されたのは矢口ら若い世代。これまで目の上のコブと思いながらも、なんだかんだで頼りにしてきたかつてのトップは居なくなり、その重圧から苛立ちをつのらせる矢口は、しかし同世代の仲間と共に最後の戦術を成功させるべく奔走します。
ここでもまた、大国による無慈悲な介入が窮地を与え、時間的な制約を物語に与えるのが良いです。また、恐ろしくも第二第三のゴジラ誕生の可能性を示唆しているのは続編への伏線…でしょうね。それはともかく、世界的な危機としてゴジラの存在が飛躍するのが見事。多国籍軍が結成され、属国としての日本の惨めさもピークに達します。
ちょっとだけ、大国の理屈ですが、「核攻撃なら確実に排除が可能」なように思える点だけが気になりましたが。
また、ここからは古い世代も活躍します。新世代には持ち得ない「日本的な外交」が功を奏するところも素敵。「すげ替えのきく総理」という観客の誰もが知っている皮肉も、一面的でなく多面的に捉える描写に好感が持てますし、「日本のお父さん」平泉成さんが飄々と演じているのにも笑えました。ラーメン屋…まだやってるのネ。

ここで苦悶したのが、マキ元教授が遺したデータ解析シーン。恐らくゴジラ対策の決定打が示されたのだということはわかったのですが、解説が早口で正直理解できない。歓喜する矢口チームを尻目に、観客は「そういうこと」として理解したフリをしなければならないのが苦しいところです。私も一緒に盛り上がりタカッタ…!

そして最終対策措置「ヤシオリ作戦」が実行されます。コレは兼ねてより矢口チームが考案していた、ゴジラの血液を凍結する事により、そのエネルギー源である体内原子炉の活動を停止させる作戦です。堅牢無比な外皮からの注入は現状不可能であるため、凍結剤は口から摂取させる必要があります。つまり古事記のヤマトタケル伝説。八岐大蛇に飲ませた酒が「シオリの酒」で、「繰り返す」の意を持つ「ヤ」を文頭に嵌めた「ヤシオリ」。矢口は「ゴジラ掃討作戦では子供っぽいので…」と言ってましたが、十分に厨二的です。
特撮SF的な新兵器はリアリティを損なうため、あくまで現実的な作戦となります。
これまでは首相官邸や緊急対策室に篭っていた矢口が、自ら前線に立つのがよいですね。エリート層が上から目線で語る「ゴジラ」になってしまうところを、「下」に降りるワケです。前述のデモに対する反応のくだりから、矢口がさらに成長したと感じさせてくれます。漸く信頼できる仲間を得、彼らに後を託す事で、矢口の人間的な成長を示すのも良いです。無論、ゴジラに接近する事による放射線被害は恐ろしいものですから、作戦に参加する人々は命懸け!だからこそ決戦に際し矢口が行う演説は心に響くものがあります。…が、矢口はチームに向けたものと併せて2度目なんですよね。一発で決めて欲しかった気がしなくもありません。

そして発動するヤシオリ作戦。
「ぶっちゃけ地味じゃね?」と思う人がいるかもしれません。しかし、新首相のくだりもそうですが、高層ビルや無人在来線爆雷、重機による攻撃など、これまで東京という街を支えてきたアイテムで挑むのは熱いです。
「東京の敵は東京が、東京駅で倒す!」
ゴジラの被害があったにも関わらず、在来線が動くのか?…という疑問はともかく、かなり面白い画です。何よりキチンと有人機に直接被害が出るのも正しいと思います。本作はここまで人的被害の表現がほとんど数字でしか描写されませんでしたので、命が散る描写はとても大切。そして「ヤ」の部分、諦めず繰り返す所も良かった。最後再び立ち上がったゴジラが咆哮を上げ、しかしそれは決して断末魔の遠吠えではなく、威厳を持って凍結される姿は雄々しく、尚恐ろしい。

ラストの「希望」ついては、正直甘いと感じました。いくら放射線被害が少ないとはいえ、あれだけの存在が居座り、危機が完全に去っていないという状況を示しているのですから、さすがに市民は帰ってこれないだろうし、首都は移転するだろうとか、どうしても感じてしまいます。が、「この国はゴジラと共に生きていくしかない」というメッセージは、日本が抱える様々な問題点に対する回答として捉えることができるため、こちらも「許容するしかないのかな」と納得致しました。

本作の「ゴジラ」で描かれたのは、造形は勿論、存在する事への恐怖。
ポスターやチラシのコピーにもありましたが、「現実対虚構」という言葉は本作を実に端的に表していると思います。
虚構であるゴジラがもしも現れたなら、日本という国は現実にどうなるのか、またはどうすべきなのか。その完璧なシミュレーション。
かつて『劇場版パトレイバー2』で牡馬瑛一が示した仮想の戦争シミュレーションを、庵野監督は『ゴジラ』によって見事実写として表現したのだと思います。

また、本作は非常にバイオレントながら、ヒトの血は流れません。そこが多少不満ではあるのですが、ゆえに全年齢対象が成立しているワケですし、であれば『マッドマックス憤怒道』同様ご家族で是非劇場に足を運ばれるべき作品なのではないか、と思います。