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シン・ゴジラの3104のレビュー・感想・評価

シン・ゴジラ(2016年製作の映画)
4.3
「ゴジラ」シリーズとして数えるなら29作目。“アップデート”された「2010年代のゴジラ」が姿を現した。
これまでのシリーズ諸作品は、いわゆる「昭和ゴジラ」にせよ平成の「VSシリーズ」にせよ「ミレニアム」にせよ、一昨年の「ギャレゴジ」にせよ(ギャレゴジはある意味ことさら強く)どれも一作目『ゴジラ』(54)とのクオリティ、立ち位置、メッセージ性などの差異の比較~初代ゴジラに対して~・・という“十字架”を背負わされる宿命にあったといえる。
その初代から60余年。ようやくその「初代の引力圏」からプラスの意味で逃れられ得る作品が登場したといっていい。
この『シン・ゴジラ』がゴジラ映画初体験だった人は、わざわざそれまでのゴジラ諸作品を観返さなくてもいいという(ある意味残念かもしれない)“利点”が生じると思う。それは今作が優れているというより、新旧ゴジラ作品のそれぞれの構造に起因する問題だ。
初代の影から逃れて初代に比肩しうる存在感やインパクトを持つこの映画は、同時にときに停滞や迷走を繰り返しながらも進歩してきた、日本の特撮映画界においても「ようやく」の存在かもしれない。今後の特撮映画における新たなメルクマールとして今作は位置するだろうし、そんな作品をリアルタイムで体験できた事を幸福に感じたい。

とはいっても今作が初代ゴジラの影響を全く受けていないわけではない。
なにせ作り手は庵野秀明や樋口真嗣である。彼らが愛した過去の作品、例えば岡本喜八やパトレイバー、もちろんゴジラを初めとする昭和特撮の影響がそこかしこに感じられる。
そして何より、彼らがこれまで作り出した作品の影響が顕著である。
平成ガメラシリーズ、「巨神兵東京に現わる」「新世紀エヴァンゲリオン」・・。
特にエヴァ。予想も予測もしていなかったが予想以上にエヴァである。「もう新劇場版の続きは作らなくていいよ」という(称賛の)声も挙がっているが、まさに僕もそう思う。それほどに力があり、いい意味でエヴァの影響を感じる作品なのである。

作品自体はカテゴライズするなら「災害映画」。特撮映画で怪獣も出てくるがあくまで「災害映画」と断言しよう。
不測の事態、拡散される放射能、非難を強制される人々・・などの描写から、昨今の日本で起こった「災害」とその関係者や施政者への批判的側面、人によってはプロパガンダだと叫ぶ向きもある。確かにそう読み取れる要素は多いが、個人的にはそこに執着したくはないし、それで映画の他の“美点”を見落とすのは残念なことだと思う。
災害に面し立ち向かう人々の描写が物語の多くのウェイトを占める。そういう意味での「災害映画」である。

300数十人のキャスト・・と公開前からその出演陣の数と豪華さ、多様さがプッシュされていた。確かに有名俳優人気俳優若手ベテラン名バイプレーヤー性格俳優そしてミュージシャンや映画監督に至るまで、様々な人たちが画面を賑わせる。しかし先に述べた通り決してそれがメインではなく、出演者数は多いがうまく「交通整理」され、混雑や渋滞は避けられている。というよりクレジット最上段のメインの3人以外はその人物像や背景がほぼ描かれず、人物達のドラマ的交差もほぼない。言うなれば「群像模様(“劇”までには至らず)」な状態にとどまっている。
これは物足りないといえばそうなのだが、「災害映画」たる今作ではプラスに作用しているとみる。中途半端に描いて感情移入させ、物語全体のテンポを削ぐ必要は(今回は)ない。

最上段の3人のうち、メインは内閣官房副長官・矢口蘭堂を演じる長谷川博己。
不測の事態に「希望」「理想」を持ち対処する。真摯や抑制が要求される役柄だが、その裏に“正しい狂気”を見出してしまう。
その矢口とは反対に「現実」「冷静」を持ち事態にあたる内閣総理大臣補佐官・赤坂秀樹を演じるのは竹野内豊。
2人は対照的な存在として物語内に配置される。ただ「理想vs現実」のぶつかり合いにはそれほど時間は割かれない。明確には提示されるがそこだけにかかずり合っている暇はない。
ゴジラという「事態」への対処はそれほどまでに重大かつ急を要するし、作り手側も意図的にテンポを早め観客を、そして劇中キャストをも急かす。
石原さとみ演じる米国大統領特使カヨコ・アン・パタースン。米国(そしてひいては他の海外諸国)との物語上の「窓枠」の役割。
彼女のような存在が投入されなければ物語はより狭く平面的になっていたと思う。しかしその役目に対しての役柄としての「オイシさ」はごく少ない。英語のセリフ回しなど含め、リスクが多いポジション。損な役回りだが存分のパフォーマンスだったとは思う。
同じ女性登場人物という意味では「巨災対」の尾頭ヒロミのほうがいくぶんも、いやかなりオイシい。物語にヒロインを見出すならカヨコより尾頭だと断言できる。
市川実日子が演じた彼女に、いや市川実日子自体にも魅せられた人は多いことと思う。もちろん僕もその一人である。
特にゴジラが発する放射能の半減期がごく短いものだと判明したときの彼女の笑みに、それまで常に仏頂面だった彼女が見せた感情の「緩み」に心を掴まれた人も多いことと思う。もちろん僕もその一人である。

他にも特にクセのある役者の使いどころ(と若干のハズし具合)が絶妙。特に前述の「巨災対」のメンツ。はみ出し者が集められた特殊チーム。長谷川を頭に津田寛治、高橋一生、野間口徹、市川実日子に塚本晋也。
チーム以外なら松尾諭や黒田大輔もこのカテゴリに類する存在感か。しかしキャストが多すぎてクレジットにはあるが出演が確認できなかった役者もちらほら(柳英里紗はどこに出ていたんだ?)。

災害映画と書いた。ではゴジラの描写は?となるが、これがまた素晴らしい。フルCGであることや史上最大の体長などが事前に宣伝されていたが、よくまぁそんな些末な情報だけを宣伝し、真のエッセンスを隠し通せたものである。
ゴジラは基本的に作中で「完成」され変化しない存在だったが、今作ではなんと形態が進化してゆく(どこか使徒のよう)。
どの形態も印象的だが、特に陸に上がった直後の「第二形態」の異形さは筆舌にし難い。衝撃と嫌悪感を与えるファーストカットは、ある意味作中随一の見せ場といってもいい。あれをネタバレさせなかった時点でまずは作り手側の「勝利」だ。
そして成長した第四形態ゴジラのパフォーマンスが圧巻。
生物としての“理屈”(動力源や弱点等)をきちんと備えた上でのあの攻撃。ゴジラはもとよりギャオスやバルゴン、イデオンや巨神兵を想起させるあの様子。そこまでやるかー、と心中快哉を叫んだほど。
(しかしフルCGと謳っていたが、寄りの咆哮シーンは従来の着ぐるみのような生物感と表情あふれるものだったが実際のところはいかに)

もちろん(?)全てが良かったわけではない。
例えば早口のセリフの応酬。人物ドラマパートの骨子を成すものだが、ところどころ「それ、簡単な表現をただ難しくしているだけでは?」と醒めるケースもあり。
過去作の伊福部メロディの流用。昭和ゴジラ好きとして胸躍る要素だが、ややあざとく使いすぎの感あり。エヴァの「Decisive Battle」の2度目の流用もまた然り。
それらの要素を含め、結局「マニアがマニア向けに作った映画」という範疇を越えられないのでは?という、最後まで観て満足した上でなお感じる一抹の不安もあり。
加えて舞台となった東京や神奈川に住んでいたり土地勘があれば、さらに「現実感」のようなものを享受できたのに、とも。
「ニッポン対ゴジラ。」ではなく「東京一部神奈川対ゴジラ。」だったのか、と、仕方のない事も思ってみたり。

ともあれ岡本喜八、もとい牧悟郎教授のセリフではないが、昨今の邦画界を縛り付ける諸条件から解放され(たように見える)「好きにする」ことができたのが、作品をここまで魅力的なものにできた一番の要因かと。「この国(の映画)はまだまだやれる」、のである。
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