最近はサイコパスな犯罪者を扱うクライム映画が非常に多いんだけど、本作はマキャベリストによる犯罪を描いている。
そこが何よりの美点。というか、希少価値。
最近だとほかに何があったっけ? と考えるけど、ぱっと思い浮かばない。
蜷川幸雄の「青の炎」におけるニーノがマキャベリストな犯罪者だった。あれは、引くに引けぬ状況に対して、マキャベリストと化するしかなかった若者の悲哀を描いていたんで、本作とはちょっと違うけれど。
ともあれ、あれは、2003年作品なので、「最近」とは言えないですね。
古典的には、文句なしに「罪と罰」ですよね。
本作は一見すると、「悪い種子」や、日本で言うと森村誠一の「魔少年」に似てるんだけれど、そっちの系統はすべて犯罪者がサイコパス。
本作は、それらとは異なって、マキャベリストによる犯行とその後を描いていて、そこはとても面白い。
とはいえ、本作で描かれる娘の死は、父親役の内野聖陽の奮闘に対しては申し訳ない感想なんだけれど、劇中に登場する警察の見解と同じく、やっぱり事故に過ぎないと思う。
悪ふざけからの偶発的な事故。
いや、もちろん、それもダメなんですよ、現実社会では。現実に同じことが起きたら、当事者は断罪されて裁かれなきゃならないと思うんだけど、この物語の起爆剤としては、全然不発なんです。
信念をもって将来の夢のために孤独で不自由でストイックな生き方をしている、ある意味「高貴」ですらある犯人が、こんな杜撰なリスクを冒すかね?
そこが決定的に弱い。
つまりは、しっくり来ない。もっといいイベントに置換可能なのです。
何でもいい。夢の実現を阻む致命的な弱みを握られた犯人が、明確な意思を持って被害者を殺す。
それがあってこそ、作品内での両者の攻防が活きてくるのです。
冒頭に書いたマキャベリストのラスコーリニコフが主人公である「罪と罰」は「潜在的な」ミステリー小説でしかなかったわけですが、乱歩がそれを、「心理試験」という作品で、探偵と犯人の攻防戦という「明確なミステリー小説」に仕立て直したように、本作にもそんなポップさが必要だったと考えるのです。
なのに本作は、「たまたまの出来事に場当たり的に対処する犯人」に終始してしまっているのが、とても残念なところ。
また、主人公の内野聖陽が心理学の先生なのに、「そこでそういう行動に出るかね?」「その行動がなかったら、この物語は成立しないけど、そんな蓋然性を残してていいのかね?」と思うところが多すぎる。
言い換えると、人物が物語を都合よく進める「駒」に留まっているのだ。
内野パパ、酒に逃避してるしね。谷村さんもティーンエイジャーにマウントされてるポンコツだしね。
ボブ・ディランの曲をもじると、みんな「Only a Pawn in 作り手の Game」なんです。
ただね。「駒」が全部悪いわけじゃない。
ヒッチコック映画なんて登場人物全部が「駒」ですよ。人格なんか貰ってないもの。あくまでヒッチさんが進めたい物語のための「駒」。
ヒッチさんは「役者の人格」を徹底的に嫌った。演技を嫌った。「駒」以上になってほしくなかった。
「山羊座のもとに」でバーグマンに言った、「たかが映画じゃないか」は有名だし、「映画術」を読むと、「引き裂かれたカーテン」ではトリュフォーに「ポール・ニューマンってさ。あいつ、アクターズ・スクール出身じゃん? メソッドとかやっちゃうじゃん? だからさ、俺が『ただ、そこを見てろ』っつっても『意味のある』演技しちゃうんだよね。もう、面倒だったよ。そんなの全然要らないし!」的なことを言ってた。
でも、ヒッチさんの作品はそれはそれで傑作揃いじゃないですか。
つまり本作は、ヒッチさんと違って、「駒」の動かし方が下手くそなだけなのです。
Wikipediaを読むと、原作に対する池上永一の評として、「手札のダブつきも感じ、物語のうねりよりも先に作者がカードを切ってしまい、微妙にテンポがずれている」とある。
まさに、そこ。
それがそのまま映画にも反映しちゃってるのが残念なところなのです。
そんなの映画にするときに、いくらでもチューニングしたり、改変したりしていいのですよ。
いろいろリヴァイスできるところはあるけれど、「娘のスマホをショップに修理依頼する」と「修理あがったスマホをゲットする」の間の「犯人呼び出しシーン」が最高に無駄でしたね。内野パパが何をしたいのか、行動原理がまったくわからない。
だって、あれはスマホの修理までの「時間の経過」を描きたいためだけのシーンだから。
そんなのばっさり切っていいんだよ。「修理依頼」→「即受け取り」でも、全然いいんだよ。
ヒッチさんを引き合いに出しましたが、氏にはほぼ唯一の"Based on a true story"である、つまり「駒」じゃない人物を描いた「間違えられた男」がありましたよね。この題名から、別件を引き合いに出しますね。
「間違えられた男」と言えば、「古畑任三郎」で風間杜夫がゲストだった回も同じタイトルでした。
これはせっかく完璧な密室の、完全犯罪を成し遂げた男が、それとは全然違うトラブルに遭遇して、場当たり的に対処して右往左往する物語。
正確な台詞は覚えてないけど、ラストで風間杜夫が「古畑さん。あなたとはもっと別の事件で闘いたかったよ」みたいなことを言いました。痛快で最高な捨て台詞。しかも、見てるこっちも、共感しまくれる。
本作についても、「『罪の余白』さん。本作ではもっと別の闘いを楽しみたかったよ」というのが偽らざる感想です。
すみません。
本レビューでは、私、結構酷評まがいなこと書いてますよね。
私、ほんとはいかなる映画も貶したくないんです。
ほんっとに「クズ!」と思った作品は、レビューもせずに、「そっとしておく」ようにしてますので。
では、なぜわざわざ本作を取り上げたか。
それは、第三幕の冒頭のエピソードが実にユニークで素晴らしかったからなのです。
というのも、本作ではマキャベリストたる犯人の女子高生は、女優志願なのです。
中盤で、「あれ? 援助交際してるのかな?」と思ったシーンがあって、でもそれは第三幕で「芸能事務所のスカウト待ちで、街に立っている」のだったと説明されるのです。
で、第三幕ではスカウトされて事務所で面接されるわけですわ、この娘が。
この子は、はじめの方に書いたように、「信念をもって将来の夢のために孤独で不自由でストイックな生き方をしている」マキャベリストなのですよ。でも、芸能事務所の社長からの「人生経験」に関する問い詰めによって、その生き方や信念がガラガラと崩れていく。
良かれと思って犠牲にしていたことどもすべての方が、ほんとは重要じゃなかったのかい? と突き詰められるのです。
ここが滅茶苦茶エキサイティングなのです。
はっきり言って、内野パパ探偵の追及なんか全然関係なく、この時点で彼女は世界に対して敗北してる。
そこが猛烈に面白かったし、怖かった。
「今、何がいちばん欲しい?」と訊かれ、答えた「自由」は、本作で唯一の彼女の本音だろうし、女優志願とはいえ、高校までの人生経験しかない彼女がその後追い打ちで訊かれる「で、あなたのいちばん好きな映画は何?」は、恐怖過ぎます。
俺、怖すぎて笑っちゃったもの。
そんなの絶対答えられない。何言っても軽蔑されるの確定な、無理ゲーじゃないですか。
(本作では答える前にシーンが変わるから、答えは提示されないけどね)
ともかく、ここが本作最大の評価ポイント。
ここで終わっても、個人的には全然良かった。
だから、その後、あれがあって、これがあって、最終的にドーン! ってなって、「でも生きとるんかい!」があって。
青い雄の熱帯魚とか、序盤からずっと暗喩になってたけど、もうそんなのどうでもいいわいっ! てなりました。
繰り返すけど、本作白眉の恐怖シーンは第三幕はじめの「芸能事務所の面接シーン」です。
そこだけでも、本作を観る価値は十分にあります。
このシーンでは、恋愛についても訊かれるので、蒸し返しになるけれど、「恋愛御法度な芸能界に飛び込みたい犯人が、たまたま被害者に共有した恋バナ」→「殺人」みたいなのが起爆剤になってたほうが絶対よかったな~。
さてさて。
このあたりでレビューを終わろうかと思ったんだけど、ひとつ不意に思い出しましたよ!
私、10年くらい前に、若干芸能関係の仕事に携わっていたことがあって、ティーンエイジャーの女の子たちのオーディションに立ち会ったことがあるのです。
その内の一人の、その春大学に進学が確定したばかりの女の子が、女優志願だったんだけれど、監督業にも興味があると言っていたので、本作と同じく、「で、あなたのいちばん好きな映画は何?」と実にイヤ~な質問をしたことがありました。
マジで、今の今まで忘れかけてたけれど。
その子、なんて答えたと思います?
一瞬口ごもってから、でもはっきり「人のセックスを笑うな」って言いましたよ。
井口奈己監督作ね。
その選択も渋いし、何よりオジサンばっかり数名並んでる面接の場で、凛としてそのタイトルを言ったのが気高すぎて。
はい。で、この子はオーディション通過しました。
それから、うちの「読モ」的な仕事を一年ほどしてくれた後、別の事務所に移籍しました。
その後は、とあるバンドのPVに出たり、学園ものの映画観てたら「教室にいる生徒たちの一人」でたまたま見かけたりして。
もうそろそろアラサーになってるけど、最近は名前も見かけない。
何をしていらっしゃるんだろう。
いくらか形を変えてでも、夢を実現なさってたら嬉しいんだけどな。
まさか、本作のようなマキャベリストじゃなかったろうから。