シネマJACKすぎうら

太陽のシネマJACKすぎうらのレビュー・感想・評価

太陽(2016年製作の映画)
2.5
あくまで私見だが、キホン、舞台演劇の映画化はかなり難しいのでは、と思う。例えば、一旦、内容(シークエンス?)をバラバラに解体して、 映画向けに組み立て直すような気の遠くなる作業を経ないと、違和感が出てきてしまうような気がしてならない。この映画を鑑賞して、そんな思いに駆られてしまった。

本作においては、役者さんのセリフを聴いていて、舞台そのままかな?と思しき場面がいくつか見られ、違和感を禁じえなかった。なんかリアリティがないのだ。特に序盤、鶴見辰吾演じる役人が集会所で演説ぶつシーンは舞台演劇そのもの。そもそも、それが演出意図なのかもしれないが、正直いって違和感のみで効果が感じられない。

また軸となる二つの世界(ノクス、キュリオ)の定義(違い)についても、劇映画として見せるには詰めが甘いような気がしてならない。両世界の長所短所が、各々、次元の異なるところにあって、一義的に比較しづらい気がした。(例えば、太陽光とウィルス感染の脅威、どちらを拾って、どちらを捨てるかの命題にリアリティを感じられないし、富と貧困にいたっては逆に考える余地がない。とか、、)よって、現実社会の暗喩として想像を巡らすことも難しく、いまひとつ胸に刺さらない。

結果的に、(キュリオにおける村社会の無秩序が凄惨な状況を生みだしている場面もあり、)ノクスで暮したくなるに決まってんじゃん、と観客の意識が偏ってしまうと、そこに物語性の入り込む余地が無くなってしまう。

さらには、「ノクス=富裕層=近代的=都会」←→「キュリオ=貧困層=前近代的=田舎」といったイメージの図式もなんか短絡的で違和感が。。
いっそのこと、両世界ともCGとかで現実社会にはない造形をデザインしてしまった方が却ってリアリティを演出できたのかも。

最後に、気に入った点について。
神木隆之介演じるキュリオの主人公と、ノクス側の門番の交流は感動的。ここをもっと極端にクローズアップした内容の映画でもよかったのではなかろうか。