せーや

顔のないヒトラーたちのせーやのレビュー・感想・評価

顔のないヒトラーたち(2014年製作の映画)
3.8
1958年、ドイツ・フランクフルト。
地方検事のヨハン・ラドマンは
第二次大戦中にナチスによって行われていた
アウシュヴィッツでの犯罪を公表しようとする。

「アウシュヴィッツを知っているか?」

ヨハンがアウシュヴィッツを捜査するきっかけとなった記者のグニルカの言葉。

戦後ドイツでは経済復興に焦点が当てられ
戦争犯罪への追及は二の次だった。
そして20年後、人々はナチスの過去を忘れかけていた。

戦争を経験した「大人」たちは
自分たちが犯した過ちを、
同胞が犯した罪を、ひた隠しにしようとした。

それが「平和」のために必要だと考えていたから。

20年という月日は、戦争を知らない者が大人になる年数。
検事ヨハンのような若者は、ドイツの負の遺産を知らない。

アウシュヴィッツ収容所で行われていた犯罪を公表するため
ヨハンは捜査に乗り出すが、関係者を洗い出すだけでも
その数は計り知れない。

1000万人もの、顔のないヒトラーたちは
今でもこうして平然と街を闊歩している。
何の反省もなく。

この映画では「正義の線引き」が問題になる。

「命令されたからやった」
「やらなければ自分がやられる」
「助けようとすれば殺される」
「どうしようもなかった」

映画「善き人」や「愛をよむひと」「ハンナ・アーレント」
などでも取り上げられていたように
こういった微妙な問題は、どこで罪とするべきなのか。

なんの悪びれもない者には、当然罰を与えるべきか。
悪びれないからといって、反省すればいいのか。

ヨハンは正義とは何か、疑問に思うように。
ヨハンはある事実を知ったとき、絶望し、迷宮に迷い込む。

自分の信念が打ち砕かれ、崩れ落ちた時に
被害者の思いを理解し、そしてナチス党員の真実が見える。

若さゆえの熱さ、激しさ。
目指すべき道が一本しかなくて、その道からそれようとしない。
そんなヨハンの情熱が、信念が、結果的にドイツを変えることになる。

この事件はドイツの歴史認識を変えることになった。
「忘れることが、ドイツのより良き未来へつながる」という考え方から
「忘れてはいけない。記憶すべきだ」という考え方へ。

国際裁判などではなく、
ドイツ人自身が、ドイツ人を裁くことに意味があり
ドイツ人に過去の過ちを記憶させることにつながる。

「何も知らない世代」が、ドイツを変えた。
その一方で、その世代は、彼らの親の世代を軽蔑することになる。

「若い世代が父親に”犯罪者”かと問うようになる」

ドイツを変えることとなった事件を
「記憶すべきもの」として描く一方で
原題”Im Labyrinth Des Schweigens”(沈黙の迷宮で)
という名の通り、正義、信念の迷宮に迷い込んでしまう。

セリフのひとつひとつに重みのある作品。

これを見た、今のドイツの若者は、何を思うんだろう。
せーや

せーや