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ハッピーアワーの3104のレビュー・感想・評価

ハッピーアワー(2015年製作の映画)
4.3
上映時間5時間17分。
3部構成で1部あたりの料金が1300円。
演技経験がほとんどない人達が主人公。

・・これがこの映画の「外見」である。気軽に劇場に足を運ばせる要素とは言い難い。われわれが劇場やレンタルやTVで普段よく観ている映画群とは明らかに「カタチ」が違う。

戸惑いながら、いや戸惑う材料さえ持たずに劇場に足を運んでみた(実際のところ抱いていたのは「期待」だった。僕は映画の受容に関してはマゾ寄りである)。大阪公開初日。なんと満員で立ち見まで出る大盛況。

そして実際に観はじめるとどうだろう。最初のほうこそ主人公をはじめ多くの登場人物達の棒読みに近いセリフ回しが気になるものの、そのうちそこを乗り越えて色々なものがこちら側に飛び込んで来る。いや向こうから飛び込んで来るというより、こちらが「ハッピーアワーの世界」に入り、自分もその世界に存在して目の前で展開される出来事を眺めているという心持ちになっていくのである。
それは登場人物(の誰か)に感情移入や自己を投影するという類のものではなく、文字通り「そちらの世界」にいる気分。
「リアル」という単語で包括できるような感じではないが、これはこれでやはり「リアル」なのであろうか。
じっさいストーリーも極めて現実に寄りそった設定で、ごく普通のアラフォー女性4人を中心に、彼女達が過ごす/遭遇するあれやこれやが5時間以上の時間をかけて描かれる。
編集やカット割り、セリフ回しなどの映画的テクニックはそこかしこに見受けられるが、そこにおんぶにだっこで助けられる訳でもない「日常≒リアルの連続」が、ただ長時間にわたり紡がれている。
しかし冗長だったり散漫な部分がほぼないのはなぜだろう。普段ならさまざまな~時間的制約等~都合で省略する描写をいちいち描いているというのに。
そう描く「誠実さ」故か、ぎこちなさからかえって生まれる「生々しさ」故か、それともこういう構造に対する「新鮮さ」故か。
いずれにせよ、われわれは普段いかに「映画的省略」や「映画的誘導」に馴らされているかというのを認識させられる。それだけでもこの「ハッピーアワー」を「体験」した甲斐があったとも思う。

前述したように映画は3部構成になっている。
1部と2部の終わり方(それは即ち2部と3部の始まり方でもある)がとてもいい。各部ごとに仰々しいエンドロールや音楽、ましてや「前回までのハッピーアワー」などが挟まれることなく、つとめて自然な展開の中でフッと終了する(とはいえ「ここしかない」という上手い区切り方。これは映画的でない作品の中に巧妙に仕組まれている、極めて映画的な部分に思えた)。引き込まれて観ている側としては世界が唐突に停止したかのような気分になる。ここで止まってしまうとさすがに次を観たくなる。そういう観点からもこの映画は3部をぶっ通しで「体験」することをお勧めする。いや、その宙ぶらりんな気分を抱えたまま、続きを観るまでの日々を過ごすというのもいいのかもしれない。このあたりは3部を分けて観た方の意見を伺いたいところ。

1部、2部、3部とそれぞれの色(意図的か、それとも観た側が勝手にそう解釈してしまうのか)のグラデーションがついている。2部後半~3部になるにつれハッピーなアワーでなくなっていくのだがそれを含め、またそこを乗り越える彼女達の様子(事実、劇中で彼女達は「幸せ」についてよく言及している)を表して、そしてそれを最後まで付き合った私達の気分も含めての「ハッピーアワー」なのか。もちろん感じ方は客の数だけあろうが、少なくとも僕にとってはハッピーな時間だったと言い切れる。「あの世界」がもう観られないのか、あそこにもう行けないのか(監督は舞台挨拶で「続編は考えていない」と明言)・・という寂しい気持ちも同時に抱えてしまったが。

何度も書いたがこの作品は「体験」である。たとえソフトがリリースされたとして、家庭でメールや電話等をシャットアウトし万難を排して集中して5時間17分を観たところで、おそらく同じ「体験」は味わえないであろう。

作品の形態や規模のせいで公開される劇場や期間は限られるが、これから「体験」する人が少しでも増えんことを。
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