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ノクターナル・アニマルズのnucleotideのレビュー・感想・評価

ノクターナル・アニマルズ(2016年製作の映画)
5.0
別れた妻に小説を捧げたエドワードの狙いは復讐か、あるいは愛別離苦の悲しみかといった二者択一な解釈を求めるよりも、シュレディンガーの猫のように相反する結末の可能性が1:1に重なり合っていることを受容する態度がこの手の文芸作品の味わい方ではないか、などと思い巡らしつつ、さてこの作品がなにを扱っているのかについて迫ってみると、それは自己意識と承認願望のジレンマではないかと思う。ヘーゲルによれば、「反省(reflexion)という言葉は、光が直進して鏡面に当たり、そこから投げ返される場合、光にかんして用いられる」ものであり、もともと光の「反射」だった「reflexion」が「何かに当たって、元に戻ってくる自己回帰」となり、心について語られると「反省」となる。ここでいう「何か」とは「他者」のことであり、従って西洋的な自己認識のプロセスとは他者の介在なくして達成されない営みであることがわかる。そうした視点でこの作品を眺めてみると、母親と同一視されることを憎み、抗いながらも結局は母のような生き方を選択してしまうスーザンと、小説家として才能と熱意がないと見做されてしまうエドワードの姿から、「実現したい自己像」と「他者からの評価」の不調和というテーマを見出すことができる。「内なる私」と「他者から見た私」という対比は、ジェンダーやセクシャリティとも親和性が高いことから「シングルマン」に連なるトム・フォード監督の一貫した問題提起であることも伺える。そうした二重性を象徴しているのが、劇中の小説(創作の中の創作)である『ノクターナル・アニマルズ』それ自体と、ジェイク・ギレンホール演じるエドワードの姿をした主人公トニーである。エドワードの姿をしたエドワードではない人とは、言い換えれば、「彼ではない彼」であり、又「私ではない私」である。そしてさらにこの物語を複雑且つ興味深くしているのが、悪漢レイの存在である。レイは共感不可能な絶対的他者でありながら、エドワードの創作したキャラクターであることから、内なるもう1人のエドワードとしての解釈が可能である上に、「おれは浮気を疑われたら他の女とヤる」「レイプ魔だと言いやがったからレイプしてやった」というような、「他者から抱かれるイメージを実行する」男であることが、スーザンに対するサタン(反対者)として結晶された批評性を体現している。このあたりのメタファーの深度は二重性をはるかに超えて、絶えず形状を変化させながら物語構造に響き合っているという、惚れ惚れするようなインテリジェンスを蔵している。思えばあの強烈なイントロダクションも、醜なるものが現代アートという美の文脈で提示されていることから、この映画全体を被覆する二重性や齟齬を暗示していたのかもしれない。

最後にヘーゲルの「自己意識」を独自に読み替えたコジェーヴの講義を引いてこの評の結びとしたい。

ー人間は自己の人間的欲望、すなわち他者の欲望に向かう自己の欲望を充足させるために自己の生命を危険にさらし、それによって自己が人間であることを「証明」する。(…)他者の欲望を欲すること、これは究極的には、私がそれである価値もしくは私が「代表」する価値が、この他者によって欲せられる価値でもあることを欲することになる。即ち、私は他者が私の価値を彼の価値として「承認する」ことを欲するのであり、私は彼が私を自立した一つの価値として「承認する」ことを欲するのである。換言すれば、人間的欲望、人生の生成をもたらす欲望、自己意識即ち人間的実存性の生みの親としての欲望は、いかなるものであれ、終局的には「承認」の欲望に基づいている。人間的実存性が「証明」される機縁となる生命を危険にさらすことは、このような欲望によって惹起される冒険である。
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