恋は一瞬、愛は永遠。
「メイズランナー」シリーズのトーマス・サングスター主演のSF短編。
これは何とも不思議な気持ちが湧く作品でした。
コメディの要素も含みつつ、根底には人が抗うことができない感情の爆発があり、深く心をえぐられるよう。
レトロフューチャーな美術やガジェット類も見どころのひとつで、宇宙空間の描写などにチープさが無いのも良いです。
来る日も来る日も宇宙を漂うゴミを拾い続ける少年、ナイジェル。
拾ったゴミは分解、スープにして食べる。
そうやって、狭い宇宙ポッドの中でナイジェルはずっと生きてきました。
彼が知る人間は両親とお爺ちゃんだけ。
その他は誰も訪ねてきません。
まさしく、宇宙の孤島。
しかし、ナイジェルには密かな楽しみもありました。
それは、反対の軌道を回っているポッドを望遠鏡で眺めること。
ポッドには女の子が乗っており、ナイジェルのお目当ては、その名前も分からない少女でした。
そう、少年は恋をしていたのです。
少女に向かって真っ直ぐに飛ぶ、まるで流星のような恋を・・・
どうして流れ星はロマンティックに思えるのか?
単純にキレイだからというのも勿論あるでしょう。
空をバックに落ちてゆくひとすじの流星はキラキラとした輝きをはなち、とても美しいですからね。
しかし1番の理由は、その美しさが一瞬であるからではないでしょうか。
儚くとも数秒で消えてしまう、刹那の美しさ。
切ない、だからこそ愛しい。
それでは宇宙に芽生えた恋の蕾はどうでしょう。
キレイな花を咲かせるのか、それとも咲く前に枯れてしまうのか?
ナイジェルは花を咲かせたい衝動を抑えられなくなります。
少女との恋に、全てをかける決意をするのです。
名前も知らない彼女と触れ合うために、後先を考えず、無謀な冒険をします。
例えそれが一瞬の逢瀬だったとしても、両親のように「何もない(ように見える)」毎日を過ごすより幸せだと思えたのでしょう。
しかし、父親や母親にだってロマンスはあったはずです。
他ならぬナイジェルの存在がその証拠。
それでも躊躇することなく家族を振りきり、一歩踏み出すナイジェル。
宇宙という無限の空間がそうさせたのかもしれません。
家族しかいない永遠の孤独と虚無感しか感じられない宇宙は、ナイジェルの中では同一のものであり、大人になれば引きちぎらずにはいられない「自由を束縛する鎖」であった・・・
そんな風にも思えます。
観る方によっては残酷な寓話にも、もしくは滑稽なジョークにもとらえられるでしょう。
実際、彼女からのメッセージの件からして、最初は「そんなバカな」と笑いがこみ上げました。
しかし最後まで観ると、何とも言いようのない気持ちがこみあげてきたのです。
あんな風に、刹那に全てをかけたことが自分にあったのだろうか。
いや、ない。
もしも、そのような経験があったのなら充足し、幸せなのではないか。
死んでいるように生きる数十万時間よりも、圧倒的な価値がある数分、いや数秒を本当に「生きる」。
そんな流星のような人生だって慶福かもしれない。
深い余韻と共にそんな自問自答が頭をよぎり、自然と目頭が熱くなったのでした。
世界の果てで、2人は永遠になれたのでしょうか?
そんな風に、空に瞬く光にさえドラマを思い描くことができる。
それもまた人の美点なのだと気付かされる、さながら御伽話のような尊き秀作。
YouTube(字幕なし)にて