フィリピン映画歴代最高傑作級 第1位(らしい)
主演女優ノラ・オーノールらの、近撮の説得力。人々のいろんな顔がある。熱苦しさがいろいろ頑張ってる。
中盤までは退屈ぎみだった。カトリックなんてそもそも私にはどうでもいいし。(あえて云わせてもらえば、キリストの死の時点で最も指導力を持ってた妻マグダラマリアの “肉声” が書き残された「マリアの福音書」を、カトリックが男性優位社会キープのためには都合悪いからと焼き棄てた時点で、パウロ教なんて終わってるんだし。)
退屈さにそれとなくブツブツ気分で耐えてた私に、コニー・フランシスの名曲(Where The Boys Are)が追い打ちとなった。アジアの凡作映画をアメリカの珠玉ポップス一つが不意に飾りすぎちゃうのを、今まで何度も味わわされてきたから。。。
だが!! 後半(終わりまで40分間ぐらいかな)が凄かった!!
そして皆が集まったのは垂訓の山上寄せ? ゴルゴダ寄せ? 予想をちょっとだけ(コード進行は変えずに)裏切ってくれたことで大きな堰を切った一大クライマックス!!! 群衆エキストラを制する者が映画を制する!!!
そして!
私たちは目撃。「宗教」を「無神論」がねじ伏せる大きな結末を。だが、妥当な二元論だけでは終わらなかった。勝利したはずの「無神論」を、今度は「信仰」が乗り越えよう、という余地を残す離れワザ。(“それでも信じる”と言葉で云うのは易しいけれど、それを映像でやってくれちゃったから。)
昇華または止揚(アウフヘーベン)こそが、芸術家に私たちが求める至高の作業。私たちは生々しい現実を通しての、真実への肉薄と地獄からの昇華こそを、信頼できそうな彼らにいつの時代も託してきた。これからもしょっちゅう託す!
「真実に眩惑されてはいけません。偽りも真実も、使い方次第です」という司祭のドキッとさせた説教さえ、その後のクライマックス~結末の強さ高さ騒がしさ静けさの前では、霞んだ。
主要な女性たちが、、エルサが、チャヨンが、ミニヤが、ほかが、前半よりも後半のほうがみんないい顔してた。あらゆる意味で、マリアというものは “負けない者” であるんである。
[アテネフランセ]