大豪邸に住むブルジョワジーのある富豪の男はロマンチストで、机の引き出しに愛した女性の写真をこっそり忍ばせている。数多の従者に囲まれるブルジョワジーの優雅な暮らしはどこかミニマルで規則的だ。それはサイレント時代の映画の様に台詞がない。監督だけでなく主演もこなすピエール・エテックスの雰囲気は、彼が敬愛するチャールズ・チャップリンやバスター・キートンのようにも見えるし、彼がアシスタントとして映画業界に参画したジャック・タチの『ぼくの伯父さん』にも見えて来るから不思議だ。毎日決まったルーティンはピエール・エテックスの神経質なまでに完璧なショットの連なりにより、どこか牧歌的に見えて数学的な完璧さを誇る。ところが1929年に始まった世界大恐慌が富豪の男の運命を嘲笑うのだ。道化師のような身振りのピエール・エテックスには喜劇と悲劇が同時に滲む。机の引き出しにこっそり忍ばせたかつての女性は偶然にもサーカス団の女曲馬師(リュス・クラン)であり、彼女の間にもうけた6歳の息子と地方巡業しながら暮らしていたのだ。
全ての財産を失ったかに見えた富豪の男の人生はその実、非常に楽しそうだ。特に運命の女性と息子とを引き連れ、サーカスのどさ回りの旅に出る場面の多幸感は筆舌に尽くしがたく、道化師に憧れたピエール・エテックスのフィルモグラフィの中でもハイライトとも云うべき真骨頂だ。映画は世界恐慌を境にそれ以前をサイレント、それ以後をトーキーとはっきりと差別化を図りながら、二部構成で演出される。サイレント時代の主人公が富豪の男ならば、トーキー時代の主人公はその富豪の男の息子の活躍をピエール・エテックスが一人二役で演じ切る。同様に今作には彼が憧れたサーカスの人々が大勢出演し、その絢爛豪華たる世界に見事に華を添えているのだ。最終盤のザンパノのジェルソミーナの立て看板(何やら8 1/2の文字も踊るではないか)にはフェデリコ・フェリーニへの愛情あるオマージュすら垣間見える。あのヒトラーからチャップリンへの無邪気な変わり身は『独裁者』へのオマージュか。初日に観ようと余裕ぶっこいていたら何と今作の回だけ売り切れで、慌てて他を全て見てから満を持して今作となり、逆に良かった気もする。とにかくチャップリンやキートン、そしてジャック・タチやフェリーニの世界が好きならば足を運んでおいて損はない。東京フィルメックスの熱狂から早数年あまり。年末最期の奇跡の初公開の連発に軽い眩暈がする。