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ミュージアムのnucleotideのレビュー・感想・評価

ミュージアム(2016年製作の映画)
2.5
人が人を正しく裁くことはできるのだろうか。

私刑と死刑の対比と冤罪はこれを端的に問いかけるものだ。強調する形で裁判員裁判を俎上に載せ、職業裁判官をも獲物にすることで司法権の行使という名分を超えた「人が人を裁くこと」の根源的な問いに踏み込もうとした姿勢がうかがわれる。

しかし、そもそも”正しく”裁くとはどういうことだろう。社会心理学者の小坂井敏晶氏は『人が人を裁くということ』のなかで、刑事裁判の告発主体は被害者や遺族ではなく国家であること。国家は被害者の代弁者として犯人を処罰するのではなく、国・共同体の社会秩序維持が目的であること。それこそが裁判というものの本質だと解いている。

真実を究明する場か、断罪する場か。更生を求める場か、被害者の恨みを晴らす場か。

この命題に呼応するかのように、主人公は社会秩序の為ではなく「家族」の為に、追う側から追われる側へと、テーマと物語が連動した形で大きく舵を切った展開は興味深い。





さて、ではこの映画が扱おうとしているテーマをここに見据えた上でいくつか苦言を呈したいと思う。

まず率直な感想を述べると全体的に軽薄さが漂う作品だった。

カエル男に「判決の結果…」などと口上を模倣させる形で裁判を取り沙汰しておきながら、蓋を開けてみれば「自分の作品を世に知らしめたい」という承認欲求が行動原理だったというのには閉口した。「人が人を裁くこと」について触れてはいるがコミットするつもりは無いようで、せいぜいダシに使った程度のキャラクター造形なのだろう。一部の論壇ではゼロ年代以降の作品一般に対して、個々人の感性と想像力の優越、自我の自由な表現の追求を目指すロマン主義への回帰が指摘されているが、またひとつその主張を裏付けるような作品が増えたように感じられた。

この点に関しては漫画原作を映画化する上でのインヒアレント・ヴァイスだと目を瞑るにしても、しかし映画製作側の”罪”は重い。

”罪”と強調したのはこの映画が殊更に『セブン』を意識したつくりであり、それこそがまさにこの作品最大の陥穽であるからだ。「あなたは最悪のラストを期待する」という語るに落ちたようなキャッチコピーにも、その背後に『セブン』が潜んでいる。

『セブン』は7人の死をもってこの世の罪を浄化させようとする殺人鬼ジョン・ドゥの物語である。彼の狙い、換言すれば思想が常に外側の世界へ向けられていたことを知れば、本作での引用が如何にチグハグなものであるか、共感を得られることと思う。形而上学的な意味が合致したオマージュは世界観を大きく感じさせる有効な手立てとなり得るが、反対にこのような齟齬をきたしては、表現せんとする世界観を矮小化させる手続きにしかなっていない。

そして映画公開前にカエル男の正体を明かしてしまったことも完全に悪手だ。パブリックイメージを逆用したキャスティングによってショックを増幅させる効果を大いに期待できたし、彼のパフォーマンスもまた素晴らしかっただけに勿体無いと思わずにはいられない。興を削いではならないとして、K・スペイシーが公開前に自分の名前を伏せさせたエピソードはあまりにも有名である。ルックスを真似るだけではなく『セブン』に学ぶべきはもっと他のところにあったのではないだろうか。
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