チョマサ

映画 聲の形のチョマサのネタバレレビュー・内容・結末

映画 聲の形(2016年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

この映画を見る予定はなかった。原作漫画を読んでないし、題材やあらすじを目にしても、『怒り』と同じく重そうに感じて、いいかなと思っていた。
気が変わったのは、ツイッターでいろいろ映画と漫画の感想を目にして、興味を持ったからだった。

まずぶっ飛ばされたのは、冒頭でThe Whoの『My Generation』が流れたことだった。このアニメのビジュアルでいきなり洋楽のロックで世界的有名曲。しかも「Talkin’ by my generation」(追記byじゃないaboutだった。あと、歌詞を読み返したら、思ってたよりこの物語に合っている。)や「年を取る前に死にたいぜ」っていう話にも合致した歌詞のこの曲を使ったのに脱帽だった。これで、この映画はヤバいぞと、映画に潜り込んでしまった。

この物語の怖いところは、子どもたちが自身の手で、過去に起こした過ちを解決しないといけないことだと思う。どうやって耳の不自由な子と付き合えばいいか、和を乱す奴への不満をどうしたらいいか、子供のころからそこらへんが上手く出来る人間なんてそうはいないよな。そのことで印象に残るのが、小学校の担任の竹内先生だ。

西宮の補聴器が紛失した件を校長がクラスのみんなに話したとき、竹内先生は石田をはじめいじめに関わっていた人物を挙げていき、事件を子供たちの責任だと整理していく。この問題を子どもたちに投げてしまう流れが怖すぎた。
実際に子供たちがやってしまったことだし、責任はあるのだけど、いじめが起きるまで先生たちは西宮が学校に馴染めるように何もやってないように見えたので、ひどすぎた。世渡りがうまくてひどい奴だなと思えた。先生の立場もあるだろうし、損害も出ているし、退職もんだろうから逃げたくなるんだろうけど、子どもたちに解決できる問題でもないだろう。

登場人物たちは石田以外は、小学校の頃から性格が一貫していて、それぞれの思いに根拠があるためぶつかってしまうのがよく出来てると思えた。悪いと思ってるけど保身に走ったり、自分にも非があるけど、あんたも悪いじゃんと責めたり。
そしてその落としどころが邪魔者を排除するというやり方になってしまい、島田みたいに昔のことは穿り返すなという対応になるのが現実ぽいけど残酷だった。

石田はやり過ぎたためにいじめられてしまい、それがきっかけで臆病者に変わってしまう。でも、自分がやったことをどうにかしたいともがく。罪を償うっていうのは、罪が無くなることではないから、過去のことはどうしても残るし忘れられない。それは相手によってはずっと責められ続けるかもしれない。
結果だけ見れば「都合のいいお話」かもしれないけど、それでもその過程は友達になりたかったり分かりあおうと挑戦していて、その様子が真剣だから純粋に心動かされるんだと思う。それこそ感動ポルノとかそういった穿った見方が出来ないくらい誠実に描いてた。

演出でいうと『My Generation』の他には、結絃に石田が傘を差しだす場面がよかった。結絃の視点から傘に隠れた石田が見えることで意思が通じたことがわかるところが。あと傘の大きさもマリアを迎えに行くから大きめにしてあるのも細かい。
水路や川の撮影効果も印象深かった。レッドタートルをこのあと見たけど、あれが絵を意識した作りで、聲の形は実写のカメラを意識した作りなのが面白かった。

気になったのが家族の出番は、石田と西田の家族以外、花火大会のときに描写されたくらいであまり出なかったところ。小学校のときもあまり出なかったけど、原作だと違うのかもしれない。島田の出番も多いらしいし。
家族でいうと雪野五月さんがでてたんだけど、芸名がひらがな表記で「ゆきのさつき」に変わってたのは知らなかった。あと竹内先生が小松史法さんでポルナレフだった。全然わからなかった。

小学校の教科書に重松清の『カレーライス』という作品が出てくるのだけど、それで思い出したのが同じ作者の『ひむりーる独唱』という短編だった。『青い鳥』という短編小説集に入っていて、この短編は読み終えてはないのだけど、この話で少年が学校に行かずに蛙を鎌で刺してたくさん殺して心のバランスを取っている描写があったのを思い出した。それが結絃の動物や虫の死骸ばかりを写真に撮っている描写の元ネタなのかなと思った。でもヒキコモリにはそういう傾向があるのだろうか。追記ウィキペディアを見たらこの考えは違った。あれはそういう行動だったのか。
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